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エセ任侠、小泉首相の声やしぐさが、だんだん「あの人」に似てきた

 政治が「劇場型」になったといわれて久しいが、今回の総選挙は「リング型」だ。多くの有権者が、永田町の格闘技を見て興奮している。「劇場」には、まだそれなりの文化的背景があると言えなくもない。観る方も、ドラマの成り行きを追いつつ、それぞれの演技者の真意を推し量ったりする。だが、とにかく相手をぶちのめせばいいリング上では、パンチやキックの強さが最大のポイントだ。知恵はなくても、腕力があれば勝ち抜くことは十分、可能である。

 小泉首相はもともと、ケンカ上手の政治家といわれてきた。理念や理想を語るより、口をとがらせて持論をまくしたてるほうが得意なようだ。腹芸は得手ではない。料亭政治にうんざりしてきた市民・国民が喝采を送った理由の一つもそこにある。だが、「殺されてもいい」という啖呵を聞かされたりすると、慄然とする。腹芸もないが知恵もない、理屈ぬきで相手を殴り倒したいような人に、この国の舵取りを任せているのだから。

 70年代、学生の間で、高倉健らの任侠映画が大流行した。当時は「反体制」の雰囲気を感じ取ったからだが、今にして思えば、「義理と人情」「涙と復讐」といったヤクザ的世界への憧れにすぎなかったのだろう。小泉氏の言動から「義理と人情」はまったく感じられない。だが、任侠とは質の違った「涙と復讐」はあふれんばかりだ。

 小泉氏が特攻隊に涙したのは有名な話しだが、「かわいそう」という感情に突き動かされただけのように思う。それも、「戦場で散った無念の死」に対する同情で、その背景にある戦争の本質に思いを寄せていた形跡はない。でなければ、イラクに自衛隊を派兵したうえ、「自衛隊の行っているところが安全地帯」といった妄言を吐くことはありえない。さらに言えば、小泉氏の心にある「無念」は、国家権力に人権を踏みにじられた「無念」ではなく、戦争に負けることによって命を失った「無念」なのだろう。

 また、小泉氏の「復讐心」は、恩ある人の「仇を打つ」ことではない。自分の言うことを聞かない、あるいは自分に反対する人間への怒りというわがままな感情だ。ヤクザを美化する気は毛頭ないが、少なくとも彼らの世界には、彼らなりの「義理と人情」がある。 
 
 脚本のある「プロレス」人気は下火になり、ガチンコの格闘技がファンを増やしている。非情なまでに相手をぶちのめす”強い”ファイターがもてはやされる。鬱屈した時代にありがちな「強者への憧れ」が、エセ任侠の小泉人気を支えているのだろう。最近、表情も声も、ちょび髭の「あの人」に似てきたという感覚が杞憂に終わればいいが。(北村肇)