『朝日』よおまえもか! 読むに耐えない「ご出産」社説
2006年9月15日9:00AM|カテゴリー:一筆不乱|北村 肇
これが『朝日新聞』の社説かと天を仰いだ。
冒頭から「紀子さまが男の子を出産された」とある。皇室関連記事では、原則として敬語を使用しないはずではなかったか。同様に普段は敬語を使わない『毎日新聞』が、一報を伝える夕刊の前文で「男児を出産された」と書いた。この一カ所だけではあったが、社内で「皇室敬語問題」の論議に若干ながら加わった者としては愕然とした。その点、『朝日』の夕刊は敬語無しを貫いており、さすがと思っていたところに翌日の社説だ。さらに目を疑ったのが次の一節である。
「国民にとっても大きな喜びであり、心からお祝いしたい」。
本当にそうか。喜んでいなかったり、無関心な国民はいなかったというのか。現に私は、紀子さんの出産を「大きな喜び」と感じた人に出会っていない。仮にそれが「ごく一部の人」であったとしても、「国民」であることに違いはないだろう。
『毎日新聞』の場合、昭和天皇死去の際、当初の原稿では「皇居の森が悲しみに暮れる」といった類の表現が何カ所かあった。編集幹部が「森が悲しむはずはない」「国民すべてが哀悼しているかのような文章もまずい」と指摘、それなりにたんたんとした記事になった。それが当然だ。『朝日』が安易に「国民にとっても」などと使うのは、理解を超えている。
社説の締めは、「男子の誕生で落ち着いて論じあう時間が与えられたと言える。この機会を生かし、じっくりと皇位継承のあり方について論議を広げたい」。それはそれとしても、決定的なことが抜け落ちている。論議は「天皇制のあり方そのもの」に広げなくてはならないのだ。このことを提言してこそジャーナリズムである。
「お子さまの動き」を詳細に伝えるNHKニュースは、天皇制の本質に切り込もうとしない。こちらも「国民にとっての慶事」だからか。繰り返し、「町の喜びの声」を流していたが、マイクを向けられた人の多くは、反射的に「おめでたい」と言ってしまう゛事実゛を、現場なら知っているはずだ。
ことさらに『朝日』とNHKだけを批判する気はないが、心のどこかに「朝日神話」や「NHK神話」が残っている。神話が消滅する前に、ジャーナリズムの魂を取り戻してほしいと切に願う。(北村肇)