映画『ビリーブ』の試写を見て考えた。“伏魔殿”外務省は素直な目にどう映る?
2005年11月18日9:00AM|カテゴリー:一筆不乱|北村 肇
9人の知的障がい者が撮影クルーを結成、今冬、長野県で開かれた、知的障がい者の国際的イベント「スぺシャルオリンピックス冬季世界大会」を取材する――。試写会の前に筋立てを読み、若干の不安を覚えた。この種のドキュメンタリーは、「やればできる」「奇跡」「感動」「涙」を観客に無理強いすることが多いからだ。だが『ビリーブ』(小栗謙一監督)は違った。
あおるような音楽や演出はなく、たんたんと9人の奮闘ぶりを追っていく。彼ら、彼女らの成長を「奇跡」と呼ぶこともない。ありがちなお涙ちょうだいの場面は、おそらくは意識的にカットしている。考えてみれば当然である。「健常者」が経験や訓練により成長していくのと、本質的に変わりはない。違いがあるとしたらそれは、知的障がい者は、無防備とも言えるやさしさをもっているということだろう。
スペシャルオリンピックスの生みの親であるケネディ大統領の妹、ケネディ・シュライバーさんにも、9人はインタビューをする。年齢を感じさせないシュライバーさんは、全身から信念のオーラを出しつつ答える。それを受け止めるクルーにも真摯で崇高なオーラが出ていた。おそらくは作り手の意図さえも超えたであろう、ドキュメンタリーのもつドラマ性が、いかんなく発揮された場面だった。
とはいえ、手放しで評価する映画ではない。特に不満なのは、9人の「作品」がほとんど挿入されていないことだ。このドキュメントの主人公は9人なのだから、被写体はあくまでも「撮影するクルー」にある。それはわかる。いたずらに、彼ら、彼女らが撮った映像を加えると全体のバランスが崩れたであろう。しかし、それがなんだと言いたい。単純に「見たい」のだ。それに応えてほしかった。
『ビリーブ』のパンフレットによれば、海外には、実際に知的障がい者のつくるテレビ番組があるという。その「視点」を知りたい。人を裏切らず、人を素直に受け入れる「個性」を持った人たちは、世界をどう見ているのか。
9人にはこのまま、クルーを続けてほしい。そしてぜひ、外務省役人のドキュメンタリーを撮ってほしい。今週号の本誌特集で取り上げたように、“伏魔殿”は「健在」である。日本のため外交に汗水流しているはずの外交官が、市民の感覚とはかけ離れた恩恵を受け安穏としている。かような自分のことしか見えない人々は、はたして9人の目にどのように映るのか。私には興味津々なのである。(北村肇)