姉歯事件は、効率優先の「民営化」に人命軽視の非人間性が潜むことを浮き彫りにした
2005年12月9日9:00AM|カテゴリー:一筆不乱|北村 肇
この人は信頼できるか、友人になれるか、その基準が固まり揺るがなくなった。リトマス試験紙はいくつもいらない。「命を超えるものは社会にあるか」。「組織あっての人間か、人間あっての組織か」。この二つを問いかければいい。命もカネで買えるとうそぶくようなヤツと酒は飲みたくない。市民より国を、社員より企業を重んじるような連中とつきあうのもごめんだ。
「命はなにものより大切」など、本来、言葉にする必要はない。人間の存在そのものに組み込まれている真理だからだ。
「国家(企業)は市民(社員)のためにあり、国家(企業)のために市民(社員)があるわけではない」も、そうそう反論を受けることはないだろう。
だが、どんな疫病に侵されたのか、「天」と「地」をひっくり返してしまう人が増えた。「姉歯事件」に関わったとされる人々をみていると、おぞましさを通り越し、できの悪い喜劇を連想してしまう。「建設費を削減しろだと。だったら鉄筋を減らしてしまえ。どうせビルの寿命は数十年。いずれ倒れるんだから、わかりゃしないさ」。およそありえないことを大仰に演じていた役者が、実は本物の設計士だったら、しゃれにもならない。
自社の、あるいは自分の利益のためなら欠陥住宅でも構わないという発想は、どこから出てくるのだろうか。マンションが倒壊し何人もの被害者が生まれる事態を少しでも想像したら、恐怖と自己嫌悪でいたたまれないはずだ。
このような非人間性が「民営化」そのものに潜んでいることも、今回の事件で鮮やかに浮き彫りになった。国鉄民営化のときもそうだったが、国や自治体のすることは非効率的で税金を食いつぶすばかりという言説がふりまかれ、メディアも無定見に垂れ流す。しかし命を守るには、ときに非効率的なことが欠かせない。「なによりも大切な人命」のためには、予算とか利益とかを吹っ飛ばし、時間もカネも無制限にかけるのは当然である。
強引な効率化は結局、命や人を粗末にすることの引き換えでしか“成功”しないのだろう。だからこそ、人命に深く関わることに関しては、利益を求めない「官」の役割が重要となる。なのに、政府は先頭に立って「小さい政府」を掲げ、経営効率を唱え続ける。そこまで効率を重視し、命を軽視するなら、いっそのこと今回の欠陥マンションは壊さずに、一部官僚や代議士の官舎にしたらどうか。 (北村肇)