編集長コラム「金曜日から」 編集長のコラムを公開しています。

払拭しきれない「自粛」の縛めを解くには、「自由な表現」の実践しかない

「新年」が二度訪れた年がある。1989年。昭和天皇が死去した1月7日、新聞、テレビは弔意の一方で、「今日から新しい時代が始まる」とばかりに、高揚したニュースを流し続けた。深夜の特集番組は、「ゆく年くる年」を思い出させた。だが、市民の間に漂っていたのは鬱屈した気分であり、「歌舞音曲」どころか笑い声さえ禁止されているかのごとくだった。翻ってみると、あの日からこの国は「自粛」社会に落ち込んだのだ。

 70年代以降、さまざまな「解放」が叫ばれた。たとえば「性の解放」もその一つである。といって、ポルノを解禁しろとの主張がなされたわけではない。「国は個々人の内面に立ち入るな」、「表現の自由を侵害するな」との訴えを、「性」に象徴させたのだ。

 国家は国民の自由を縛りたがる。そのため、できうる限り厳しい法を設けたうえ、運用の余地は拡大しようとする。戦前の治安維持法や通常国会での成立が危険視されている共謀罪などは典型だ。言うまでもなく、狙いは「国の方針に反旗を翻す者」を処断し、そのことによって「物言わぬ民」をつくりだすことにある。

 だが個々人の内面を縛ることは、いかに国家といえども難しい。心の中で権力批判をしている国民を把握することもたやすくない。そこで標的にされるのが「文化」だ。文化という地表では、「私の自由を侵害するな」という、権力に対する挑戦状がさまざまに展開される。それを読み解き、「非国民」を摘発するのが国家の常道である。

 文学、音楽、映像などあらゆるジャンルで弾圧が進んだ戦前、戦中のくびきが外れた瞬間、今度は冷戦構造の下で、GHQによる思想統制が推し進められた。結局、国家のたががゆるみ、ある程度、自由な文化活動が花開くのは、高度経済成長を経てからだった。
 
 だが「解放」の時代は長く続かなかった。そして「平成」に入り、潮目は大きく変わった。この国には、目には見えないが連綿と続く「権威」があり、その前ではすべての「国民」は自らの存在をも投げ出さなくてはならない。重苦しい「自粛」の中で、メディアは先頭を切り、そうした「聞こえざる命令」に“自ら”従った。多くの市民もまた、あふれる情報の中で主体性を見失った。

 自己規制は自律的に拡大再生産し、権力はそれを巧みに利用する。この幻想の縛めを解くのは、つまるところ主体的に「自由な表現」を実践するしかないのだろう。「じだいとひょうげん」と題した新年増刊号にはその思いを盛り込んだつもりだ。(北村肇)