「日の丸・君が代」を強制する政治的権力者や校長は、能力も自信もない暴力型。
2006年3月17日9:00AM|カテゴリー:一筆不乱|北村 肇
こわい先生には二種類あった。何かといえば怒鳴ったり殴ったりする暴力型。口調は穏やかだが、すべてはお見通しという説得型。前者のタイプはひたすら校則にこだわる。学帽をかぶれ、廊下を駆けるな、爪を切れ――。いまならわかる。能力や自信がないから、決まり事に頼り、それを押しつけるしかないのだと。
授業もはへただし、教養もない。教科書の読み間違いを指摘すると、「余計なことを言うな」と頭をこずかれたりする。
一方で、こうした教師はだましやすい。見た目をきちんとして、はいはいと言うことさえ聞いていれば、高い評価を下してくれる。陰で何をしていようが、それを感知する能力などないからだ。
小狡い子どもは、自分の失敗を他の子に押しつけ、その子が悪いと告げ口をしたりする。真に受けた先生は無実の生徒を怒鳴りつけ、それがまた、子どもたちの信頼感を失い、さらに暴力的になる。そのうち生徒の側は小利口になり、表面的には「まじめなクラス」になる。暴力先生は満足し、子どもたちの恐怖感も当初よりは薄れていく。
だが、本当にびびるのは、説得型にやんわりと叱られたときだ。
「あなたは自由です。自分で考え、自分が思った通りのことをすればいい。でも自分勝手はだめ。結局、損をするのは自分」。
こんなことを、にこにこしながら言われると、思わず背筋がピンとなる。とともに、これは敵わないやと軍門に下ってしまう。
説得型の先生は総じて性善説をとっていた。まずは子どもたちを信じ、理解し、愛そうとしていた。そのことは、普段の態度や言葉のなかから、じんわりと伝わってくる。だから、子どもも先生を信頼し、指示にも従った。
今年もまた卒業式、入学式の時期になった。「日の丸・君が代」を強制する校長らは、結局のところ能力も自信もないのだ。「規則だから」「立ちなさい」「歌いなさい」では、子どもたちがついてくるはずもない。そしてまた、義務と罰則強化に走る政治的権力者は、典型的な無能力暴力型だ。(北村肇)