自然は律儀に生きている。「時間」を歪め、社会を壊すのはいつも人間だ。
2006年6月14日9:00AM|カテゴリー:一筆不乱|北村 肇
今日は何日だったかなあ。この間、ようやく三分咲きかなと見上げたばかりの公園のサクラ。もう、散り終わろうとしている。2週間ももたないのか。いつもこうだったろうか。それとも2、3日続いた強風のせいか。だんだん時間の感覚がぼやけてくる。素裸だった街路樹のイチョウは芽吹き始めた。自然は律儀に生きている。壊れるのはいつも人間のほうだ。
ふと気づく。無邪気に信じていたものが豹変していた事実に。毎年咲いていたサクラが、知らぬうちに造花となっていたような、裏切られた感覚と、「人為」というものの不気味な恐怖。たとえば、市民を守るはずの警察が、職務を放棄し、不祥事に汚れ、それを隠蔽する。さらには市民の自由を侵害すらする。
本誌のキャンペーン、「警察の闇」シリーズは今週号で第5弾。特集をつくるたびに、ざわざわとした感覚が細胞の隅々まで覆う。「まさか」「ここまで」と何度、独りごちたことか。
北海道新聞に裏金疑惑を徹底追及された北海道警察は、あからさまな報復に出た。だれがどう考えても、意趣返しだ。新聞社にとって、「取材拒否」は想像以上のダメージとなる。現場記者が最も恐れるのは「特オチ」だ。他社にはすべて載っている記事を落とすことを意味する。これが続けば、読者離れを引き起こしかねない。
新聞社の弱味を知り抜いている道警は、意図的に道新以外の社にネタを提供したのだろう。これではまるで、ヤクザの“お礼まわり”ではないか。いや、ヤクザはもっと信義を重んじる。それに、警察はなんといったって、正義の味方のはずだ。自分たちの不祥事を暴かれたからといって因縁をつけるようなことが、あっていいはずがない。
にもかかわらず、全国紙は道新を守らなかった。それどころか、因縁をつけた側に立った。私も新聞記者をしていたので、特オチの怖さも特ダネの快感も知っている。だが、芯のところで「正義」だけは守りたいと考え続けた。でなければ記者ではない。
人間のつくる「時間」は、たんたんと繰り返し進むわけではない。だれかがどこかに歪を仕掛け、いつしか社会全体が湾曲する。〇六年四月のいま、すとんと穴に落ち込んだ気分がぬぐえない。警察の監視がはりめぐらされた時代は、いつ存在していたのか。どこから蘇ってきたのか。マスコミはなぜ魂を失ったのか。社会の壊れる音がする。(北村肇)