米国は信頼できない。だから、米国産牛肉の“毒味”はまっぴらごめんだ
2006年6月2日9:00AM|カテゴリー:一筆不乱|北村 肇
家庭の食事で、「毒が入っているのでは」と疑う人は滅多にいない。家族を信頼、信用しているからだ。共謀罪について、元警察官僚の平沢勝栄衆議院議員は「警察を信用できるかどうかだ」という。その通り。ただ平沢氏と異なるのは、市民の多くはいまや警察を信頼していない。だからこそ、共謀罪はノーなのだ。
警察官や法務官僚が無条件に正義の味方なら、「組織犯罪をしでかす恐れのある組織・団体だけが対象です」という説明を素直に受け入れるかもしれない。だが、現状はどうか。裏金問題、相次ぐ冤罪などなど、およそ正義とはかけ離れた実態がこれだけ浮上している中で、「信頼してください」と言われても、おいそれと「はい」というわけにはいかない。
米国産牛肉の「輸入再開」問題も同様。要は、米国が信じられないのである。従って、現時点での輸入再開はノーとしか言いようがない。
もしも企業間の取引や契約で、「安全は守ります。絶対に大丈夫。保証します」という約束が、簡単に反故にされたらどうか。間違いなく、契約はキャンセルだろう。それどころか、その後のおつき合いもなしとなるはずだ。当然、関係した社員の社内処分も避けられない。
なにごとにもビジネス感覚を持ち込もうとする米国が、こんな単純な理屈をわからないわけがない。なのに、どうも深い反省はみられないし、再発防止のための抜本的対策が出たわけでもない。ひたすら「早く再開しろ。しない日本は非科学的だ」と主張しているようにしかみえない。
となると、「どうせ日本は言うことをきく」という、信じがたいおごりをそこに感じてしまう。年次改革要望書の件でも明らかになったように、米国は日本を属国扱いにして何らやましさを感じることもないようだ。自国の経済的利益のためなら、立っている者だろうが親だろうが、誰でも利用する。
かような国を信頼しろといっても無理な話である。
とともに、唯々諾々と従う日本政府も信用できない。国民のことを思うなら、断固とした態度で米国と交渉すべきだろう。”毒味”をさせられるなんて、まっぴらごめんだ。(北村肇)