ある「伝統」の終焉(田中優子)
2010年5月19日1:01PM
『ザ・コーヴ』を見た。この映画については、すでに昨年本誌でルイ・シホヨス監督へのインタビューをおこなっているが、その後この映画はアカデミー賞長編ドキュメンタリー賞その他五つもの賞を取っている。評判どおりの、スリリングで深い問題提起のある映画だ。
信じがたいのは、日本のマスコミや政治団体や地元の「反日」と感じるその感性である。私がもっとも心に残ったのは、日本のことなどではなく、リック・オバリーの生き方だった。『わんぱくフリッパー』は当時、私も何の疑いもなく見ていた番組である。動物を使うエンターテインメントはいくらでもあり、それに携わる人々も非常に多い。その中でスター級だったオバリーが自分の仕事に疑問をもち、その全てを棄てて活動家になった。私は「人間にとって仕事とは何か」「人は自分の生を支えている仕事にどう対するべきか」を、考えさせられた。人間が自然の恵みの中で生きている、という感覚を失ってから、仕事とはカネを稼ぐことになった。カネしか目に入らなければ、いかなる収穫物も必要を超えて多い方がいい、ということになる。節度がなくなる。いま地球に起こっている問題は、そのような人間のあり方に起因する。
オバリーの生き方もこの映画を作ってきたスタッフたちの意識も、私自身に生き方を問うものだった。そこにはこの映画と「私」の関係がある。私と世界との関係がある。「反日」という国家意識が入り込む余地はない。それどころではない。海全体の水銀汚染をも、つきつけているのだ。
ありがたかったのは、日本学を仕事とする私が、太地町の漁師たちの罵倒を聞くことができたことだ。五月三日の憲法記念日には、日の丸を掲げて都心を走る街宣車の罵倒をたっぷり聞かせてもらったが、漁師たちの罵倒の言葉は、それにそっくりだった。『カムイ伝講義』で日本の農漁林業の職人気質のすごさを書いた私にとって、それは目が覚める体験だった。「退廃」という言葉が浮かんだ。自分の日々の仕事の意味を見失った人間に残されるのは、退廃なのかもしれない。その退廃を、「伝統」という言葉で糊塗する人たちがいる。
五月九日、環境省は太地町の住民の毛髪から全国平均の四倍を超える水銀濃度を検出したと発表した。「伝統」と表現されたクジラ・イルカ漁は、これで終焉を迎える。