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萌えアートを斬る!(アライ=ヒロユキ)

2010年11月2日2:04PM

いつの頃からかよく耳にする「萌え」という言葉。「おたく」の世界の話でしょ、と思いきや、いまや影響は多方面に。現代アートの世界でも「萌え」が席捲している。しかし、はたしてその作品群は、オトナの鑑識眼に耐えうるものなのだろうか? 
 

 妖怪が現代アートの世界を徘徊している。「萌えアート」という妖怪が――。

 現代アートはいまアニメ・マンガの多大な影響を受けているが、その新潮流の旗手として頭角を現してきたのが、「カオス*ラウンジ」という美術集団。ちなみに「萌え」とはおたく用語で、空想上の登場人物(基本は女性)に入れ込む状態をさす。

 寄せ書きによる、アニメ『らき☆すた』の少女・つかさの立体作品。少女キャラを無数に貼り合わせた、梅沢和木のデジタル絵画。琴葉とこによる、心の病を負った=メンヘラ少女が立ち直る物語のマンガ同人誌。名門ギャラリー、高橋コレクション日比谷の展示場を彩ったこうした風景こそ、カオス*ラウンジの特長である。渋谷での「破滅*ラウンジ」展では、PCや落書き(グラフィティ)、マンガの切り抜きなどで会場は埋め尽くされた。その場に寝ころぶものもいて、まさにジャンクなたまり場の様相を呈した。

破滅*ラウンジ(ナンヅカ・アンダーグラウンド渋谷、5月8日~23日)

 マンガ的図像や引用はポップアートのリキテンスタインに見られるように、別に珍しいものではない。しかし表現として成立するには、審美性や批評性が鍵となる。無造作に寄せ書きされたアニメキャラの立体を、オリジナリティあるアートと考えるのは難しい。  

 このカオス*ラウンジは藤城嘘(現役美大生の作家)が、pixivなどのSNS(ミクシィなどインターネットの会員制サイト)で作品公開をしている人に呼びかけて、二〇〇九年三月にグループ展を開催したところから始まる。ここに集まった若者は、グループのイデオローグ・黒瀬陽平(美術家・評論家)によると「オタク的な素養を持っている」「二次(N次)創作的な表現が多い」となる。つまり、現在あるマンガ・アニメの二次創作(原典を自分なりに改編して創作すること)に専念している人たちである。「これがなぜアート?」と疑問に思う人も多いだろう。そこには、ふたりの触媒、後押しする人物がいる。東浩紀と村上隆である。

      「萌え」で時代の寵児ねらった人物 

 単に趣味の集まりで終わったかもしれないカオス*ラウンジを理論補強したのが黒瀬陽平である。現代思想家の東浩紀は「オタクたちは、物語やメッセージなどほとんど関係なしに、作品の背後にある情報だけを淡々と消費している」(『動物化するポストモダン』)と、現代のキャラ萌えと呼ばれる消費行動を分析する。黒瀬はこれに目を付け、このキャラ萌えを普遍性をもった現象へと再定義する。彼はインターネットでは誰もがハンドルネームを使うことに注目し、それはあだ名というキャラクターを媒介したコミュニケーションであると考えた。つまり、おたくに限らず誰もがキャラクターと萌えとは無縁ではいられないと考えたのだ。そしてこのキャラ萌えを取り入れた作品を、社会の最新潮流を反映する現代アートの運動としてぶちあげた。町おこしならぬ萌えおこしなるものも出てくる昨今。はやりの萌えといまをときめく東浩紀の援用によって時代の寵児たらんとした、黒瀬の野望がうかがえる。 

 黒瀬はGEISAI大学の講演で「現実世界が多様だけど不安定なコミュニケーション」であるとし、それに比べ「キャラクター的なものを流通させる」コミュニケーションのほうが、安定性(誤解やリスクがない)があると訴える。

  だがおたく情報の垂れ流しに終始する表現に新しさはあっても、批評性はない。時代に向き合う表現者の主体性がない。これは堕落である。与えられたマンガ図像に戯れて安心するありように、東が動物と指摘したゆえんがあるのかもしれない。 
 当の東浩紀だが、彼は高橋コレクション展は批判したが、「破滅*ラウンジ」は誉めている。彼は美術展というより、表現の新しいムーブメントとして評価しているようだ。 

     村上隆が目論むシナリオとは? 

 マスコミの寵児となって久しいアーティストの村上隆。彼はだいぶ前から若手の育成に力を注いできた。その行動は自身が日本画出身という出自から来ている点もあるだろう。 
 彼の師である平山郁夫を代表例に、ある種の日本画は美術業界での低い採点とは裏腹に、社会に対し強い影響力を持つ。それは強力な画壇という閥を形成し、その政治力で絵の評価を支えているからに他ならない。作家のオルグに熱心な村上も、このひそみにならっている感がある。 

アートバトルロワイアル 第10室(トーキョーワンダーサイト本郷、7月3日~25日)

 彼の「売れることが勝利だ」というような市場中心主義に対し、美術業界での批判は根強い。しかし私見では、これは世情の真理であり、さほど批判すべきものではない。むしろ問題は、ある時期から彼の創造力が下降を描いていることだろう。彼独自の戦略・スーパーフラット概念を立ち上げた二〇〇〇年がピークであったと筆者は見る。挑発的な言動と視点が作品にエッヂを与えていた初期に比べ、「勝者」となり、彼のフォロワーであるマンガ・アニメ系のアートが増えた現在、彼の作品はすでにとがっていない。私見では、審美的、造形的な要素があまり高くない彼のキャラクター的な絵画は、もはやどうにもイケてない。商業競争力の維持のため、彼が新人発掘に熱心にならざるをえない事情であろう。 

 カオス*ラウンジは村上が主宰するアートフェスティバル「GEISAI#14」(二〇一〇年三月)に参加。彼の後押しを受け、驚くべきペースで展覧会を行ない、多くの注目を集めつつある。黒瀬は村上が台湾に設立するアートスクールの立ち上げプロジェクトにも参加している。 
 一方で対抗勢力はどうだろうか。〇八年に開催の所沢ビエンナーレ・プレ美術展は、宣言文で市場中心主義を高らかに批判した。しかしその展示出品者は特定の美術大学の学閥で占められるという守旧ぶり。どちらを向いても不毛な現状だ。 

     内実を欠いた「萌え」への批評 

 村上隆の登場以降、若い世代の作家は商業成功に目を奪われ、発表作品のかなりの割合がアニメ・マンガ的イラストになった。海外のアートフェアを訪れると、そうした日本の作品のみ売れている現実がある。いまや美大生の多くは抽象画も理解できないのが実情だ。これに世間の萌えブームが拍車をかける。 

『美術手帖』元編集長で村上の台頭を後押しした楠見清はDr.BT名義で『美術手帖』(一〇年六月号)においてカオス*ラウンジを手放しで礼賛する。彼はリチャード・ハミルトンのポップアートとの類似性を語る。そしてその特長をポップアートにならって、「ウケ狙いで」「未熟で」「まやかしっぽくて」「フリーカルチャー」などと定義し、ほめちぎる。しかしそこには表現形式の説明しかなく、それが作品たりうるかの明瞭な根拠に基づいた批評がない。あおり宣伝調の文は「芸術戦略立案家」を自称する彼にふさわしいかもしれない。同号に掲載された学芸員と評論家の座談会では、むしろ否定的に語られていたのが興味深い。 

 辛口の評論で知られる藤枝晃雄は一九九〇年に現代アートが方法論の新しさのみを求めていると批判し、モダニズム、ポストモダニズムなど思想に依拠して作品を語っていくことを「それは様式論の代用物になる危険があります」と警鐘を鳴らした(『現代美術――ウォーホル以後』)。 

 椹木野衣は当初「不可視のネットワークに繋がれていて刺激的だ」と好意的に評したが、後に「カオス*ラウンジは新しくない」と変化する。彼特有の文明論的な語り口で、戦後日本の無根拠性とカオス*ラウンジの「自滅的なラディカリズム」を結びつける。しかしそこでは合同名義のインスタレーション、作品形成のプロセスと背景のみ語られる。 

 どんな作家も作品には命をかけている。おたく的アートを牽引した椹木が現象批評の高みに立ち、個々の作品に目を向けないのは評論責任を果たしていないと言える。あるいは、ここにも藤枝の危惧した様式論(つまり表現形式のみに注目)の代用物を見ることもできる。 

     新自由主義的世界観を超えて 

 楠見清や東浩紀を筆頭に多くのものがカオス*ラウンジに注目するのは、それが新しいアーキテクチャの表現になりうる可能性を秘めているからである。アーキテクチャとは、建築、社会設計、コンピュータシステムを指し、人間の生活行動を知らないうちに制御するシステムのこと。一種の社会工学である。東は「ひとりひとりが欲望だけで動いていても、結果としてどう公共性が発生するか、ということを考えています」(『新現実』5号)と語り、その突破口として自由な機会をもたらすGoogleなどに注目する。 

 東は個人という主体の意見交換による古典的な民主主義ではなく、経済における新自由主義に似た自動調整による政策決定、社会形成を志向する。この世界像の投影先に、いわば盲目的に作品を生むカオス*ラウンジがある。こう見ていくと、村上や楠見の狙いは資本主義のダイナミズムが生むビジネスチャンスにあることが理解される。欲望の動きを制御するシステムの支配は利潤を生む。 

 そうは言っても、個々の作家は表現を求めて止まない。梅沢和木は造形的なキレは持っており、それを単なる萌え=私的な拘泥を超えた普遍性を持てるかが今後の課題ではないだろうか。確かに疑問を覚える作品は多いが、「おはる」は私的な趣味を超える造形性を持っており、「地獄底辺」にも外部の視点を持った構成の妙味を感じる。集合体としての運動や現象ではなく、個々の作品を見ていくことが美術の発展につながる。 

 ここで、カオス*ラウンジのような欲望の自由から盲目的に生まれる公共性とは違うアートを考えたい。カントの美学は、分析的手法からアートを感覚の問題に閉じこめ、「美のための美」を作り出したと近年は評判は良くない。しかしアーレントの解釈では、カントの論じる作品の良し悪しを判定する趣味とは他者の視点が不可欠な社交性にもとづくという。アーレントは社会参加という社交性にもとづく人間を共同体再生の鍵と考えた。社会によって共有される開かれた美。そこには、新自由主義的な効率がもたらす公平と欲望充足で得られない貴重なものがあると思う。(文中敬称略) 

(あらい ひろゆき/美術・文化社会批評、写真も)

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