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秋葉原ジャパン・クール!(4/4)――典型的末期症状としての「非実在青少年」問題
2010年11月24日12:05AM
ここで私は冒頭に記した「嗜好の受動性」に立ち返りたい。仮にどのような性嗜好であれ、それを抱いてしまったきっかけは本人の意思によるものと限らない。私が実写の幼児ポルノをとりわけ嫌悪するのは、それに「出演」させられた児童の心に消し難い傷跡が残すからでもある。幼時の原体験は生涯に亘ってその人を強く支配する。これを「性犯罪者は累犯傾向が強い」と言うこともできる。だがここで気をつけねばならないのは「犯罪ではない内心の傾向」としての嗜好、露骨に記すなら個人の性の嗜好が、決して本人の意思のみで決定されず、多くの場合受動的に刷り込まれてしまう事実だ。密かにトラウマを負いながら、誰に迷惑をかけるでもなく、内心「ロリコン」である人々を東京都は、あるいは私たちは「撲滅」してしまうべきなのか?
アキバやコミケに集う、ロリコンを自覚したオタクの中には、二次元のキャラクターによって性欲という「思い」を喚起される人が存在する。そうした内容の「言葉」を小説に書いたり、コミックを描いたりもする。それらは現実世界で隣家の幼児に性的いたずらをする「行為」と全く別の次元に属する。実行すれば刑法に問われる行為を単に想起した、あるいはマンガや小説に書いたというだけで罪に問うなら、推理作家は全員有罪になってしまう(團藤重光[だんどう・しげみつ]+伊東乾著『反骨のコツ』朝日新聞出版を参照)。実際にそんな「行為」はしない。秋葉原は「クール」なのだ。
古くは伊藤整の「チャタレー裁判」から澁澤龍彦(しぶさわ・たつひこ)の「サド裁判」、先ほどの『愛のコリーダ』のケースなど表現と規制を巡って私たちの社会が歩いてきた道のりがある。個別表現の可否はそれが刑事犯罪とならない限り、成文法ではなく社会の良識が判断する性質のものであると私は確信する。法や条例が立ち入る領分ではない。
典型的末期症状としての表現規制
都条例の文案を見て最初に想起したのは江戸幕府末期の「天保改革」、特に戯作者や歌舞伎へのヒステリックな弾圧だ。当時幕府はすでに末期症状を呈していた。急速に成長する資本主義経済の前で中世以来の封建経済支配は原理的に破綻し、徳川政権に可能な施策はせいぜい「徳政」と称して大名の借金を無理やり棒引きにする程度だった。これとブッシュ政権末期に臨界点を超えた金融破綻は若干二重写しにも見える。
末期の幕閣で老中水野忠邦(みずの・ただくに)は一方で反動的な経済・財政「改革」に終始、並行して為永春水(ためなが・しゅんすい)、柳亭種彦(りゅうてい・たねひこ)など「人情本作家」を弾圧。風俗は取締りを強化して寄席類を閉鎖、特に歌舞伎は七代目市川團十郎が江戸処払(ところばら)い、歌舞伎は再び江戸に戻ることなく、再解禁されたのは明治五年、「東京」と名前が変わった後だった。
「公共事業仕分け」など長年続いた乱脈財政の清算期、これと並行して綱紀粛正と称する風俗表現規制を見て私は天保の改革を想起する。いま必要なのは「表現の自由を守れ」などのスローガン以上に現在の日本が末期症状を見せている冷静な状況認識ではないか? 「立ち枯れ」直前のゾンビ行政をいかに生命溢れる形に再生できるか? 折からの「坂本龍馬ブーム」は「幕末型」のコミケいじめと表裏一体に見える。私たちは二一世紀の「幕末」に窒息しかけている。新しい空気を入れる必要がある。
(終わり、文/伊東乾、写真/編集部)
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いとう けん・作曲家、指揮者。東京大学大学院情報学環准教授。マインドコントロールの問題を追った『さよなら、サイレント・ネイビー』(集英社)で開高健ノンフィクション賞を受賞。同書は今年11月、集英社文庫に収録。
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