「知る権利」の行使はどこまで認められたか――鯨肉裁判、仙台高裁で控訴棄却
2011年8月18日1:12PM
不正な鯨肉を運送途中に確保し、それを証拠として東京地検に届けた行為は、通常の窃盗、建造物侵入にあたるのか。七月一二日に下された鯨肉裁判の仙台高裁での判決は、「公共の利益」にかなう行為に関する「表現の自由」の権利行使であっても、刑法に触れる場合は救われることはないというものだった。真実を追求した私たちの行為は「罪」となり、懲役一年、執行猶予三年という地裁判決が維持されることになった。
鯨肉裁判では、「知る権利」を行使するための「表現の自由」がどこまで保障されるかが争われた。「税金が投入されている調査捕鯨船で不正な鯨肉のやりとりがあったのか」。「知る権利」は市民にあり、その権利を行使するための「表現の自由」がNGOや市民に保障されるべきだというのが私たちの主張だ。この考えは欧州人権裁判所などでは多くの判例が蓄積され尊重されており、市民社会が権力の監視役として機能する根拠となっている。
東京電力福島第一原発からの放射性物質漏れに対する政府や東電の対応や、九州電力の「やらせメール」は、日本の社会が抱える問題点を次々と浮き彫りにした。「正しい情報を得たい」として立ち上がったのは誰か。それは放射能調査を自ら行なうなどした一般の市民だ。
今回の原発事故で二一世紀型の日本の「市民社会」の礎が築かれはじめていると感じる。
しかし、この市民社会の形成には大きな壁がある。それは司法が十分に「知る権利」や「表現の自由」を市民に認めていないことだ。「知る権利」や「表現の自由」が保障されなければ、政府や企業の監視役としての市民社会が十分に機能しない。
昨年一二月に水産庁が不正に鯨肉を受け取っていたことを認め謝罪したことから、不正を正すという目的は事実上達成できた。しかし、その行為が「公共の利益」に貢献しても、不正を認めさせた私たちの行為の「罪」が軽くなることはなかった。不正を厳しく罰するのと、不正を指摘する人を厳しく罰するのではどちらが民主的な社会に繋がるのか。今回の判決は、民主主義に逆行すると言わざるを得ない。
(佐藤潤一・グリーンピース、鯨肉裁判被告人、7月22日号)