【北村 肇の風速計】 子どもに信頼され、子どもを信頼する
2011年10月18日6:11PM
思わず、にやりとした。でも、その後にぞっとした。
福島の小中学生四人が先月、国会を訪れ、県内の子どもたちが書いた約四〇通の手紙を文部科学省の官僚らに手渡した。あわせて「避難させてほしい」と訴えた。予想通り、官僚は最後まで木で鼻をくくった対応に終始した。感想を求められた一人が、ゆっくりとした口調でこう答えた。
「大人なのに子どもの言葉が伝わらないというのは、子どものころ、ちゃんと勉強しなかったのかなと思いました」
あまりにもぶざまで冷たい姿勢の官僚に対する痛烈な言葉。その感性に感動し、自然のユーモアセンスに頬が弛んだ。しかし、これがこの国の現状かと考えたとき、暗澹たる気分にならざるをえなかった。
「わたしはふつうの子供を産めますか?」「僕は、大人になれますか?」「わたしたちを守ってください」
こんな手紙を書かせてしまったのは私たち大人の責任だ。四〇年も「反原発」を唱えながら、結果的には一基も廃炉にできなかったことに、私自身、のどをかきむしる思いだ。まして政府関係者は居てもたってもいられない心境でなければおかしい。
それがどうだ。事実を隠蔽し、事態を過小に評価し、福島に住む人々を危険にさらし続けた。子どもたちの未来を奪ってきた。そのうえ、彼ら、彼女らの悲痛な訴えを軽くあしらおうとしたのだ。
確かに官僚は「勉強をしてこなかった」のだろう。学校の成績はよくても、肝心な勉強はおろそかにしてきた。それは「人間学」の欠如である。たとえば「人の痛みがわかる」人間になるための思索が決定的に足りない。官僚を揶揄する表現、「人の顔をした機械」がはからずも露呈した形だ。
怖いのは、子どもたちが大人に絶望することだ。何だかんだ言っても、子どもは「大人の背中」を見ている。そこに魅力を感じず、信頼もできないとしたら……。
実は、ここまで考えてから、また、にやりとした。大いなる勘違いに気づいたのだ。そもそも「子ども」は主体性をもった存在であり、大人とは対等である。「官僚は勉強不足」と喝破した子どもは、その時点でとうに大人を乗り越えているのだ。「原発」からおさらばする時代は、いまの子どもたちがつくるだろう。子どもに信頼され、子どもを信頼する大人にならねば。自戒。