【本多勝一の風速計】 お別れ「する側」か「される側」か
2011年10月21日8:42PM
「ルポの舞台紹介をまもなくはじめます」と題して、過去の私のさまざまなルポの主要舞台を、一種自伝的に写真つきで四月から書く予告をしたのは、本誌三月一一日付け「貧困なる精神」ページでした。
ところが、三陸沖を震源とするM9の東日本大震災発生は、まさにその三月一一日だったのです。
以後、本誌は翌三月一八日号から原発震災と放射能問題にからむ東京電力その他の記事に全力投球してきたとおりですが、私のページも関係者へのインタビュー等を間欠的に掲載してきました。
そして今、前記「ルポの舞台紹介を……」の中で書いた次の部分を再述します――
「私もこの年末には満八〇歳ですから、日本人男性の現在の平均年齢をまもなく超えることになります。去年一〇月刊行の最近著『本多勝一・逝き去りし人々への想い』(講談社)の〈あとがき〉で書いたように、友人・知人とは〈お別れ『する側』になるのか『される側』になるのか、一切の予断は許され〉ない時期に来ているわけです。」
予断が一切ゆるされないことを強調している理由のひとつは、郷里・信州の両親が二人とも七二歳の突然死だったためもあります。父は高血圧が原因ですが、これは塩分のとりすぎに問題があった点、当時の信州人一般と共通です。のちに県民医療対策として減塩運動をした結果、全国平均程度だった平均寿命が、男性は一位、女性も四位くらいに上りました。
母の突然死には私の責任も感じざるをえません。父は地元商工会の行事で泊りがけの旅行に出ることもあったけれど、母は常に留守番でしたから、父の死後一年たったころ、九州の親戚への家族旅行に誘ったのです。父の弟がいる島原市へ分骨をとどけつつ、母の好きな温泉も訪ねる予定でした。東京まで列車で出てくる母を迎えて、九州へは家族と共に飛行機です。母が喜んでいる様子は電話口からその姿が見えるかのようでした。
ところが、以下はさきの『逝き去りし人々への想い』から――
「その前夜、母は猛烈な頭痛に襲われた。その異常さに、医者が呼ばれ、俺にも電話があった。俺はすぐに東京からハイヤーでかけつけた。クモ膜下出血である。(中略)午前四時ごろ着いたとき、母はまさに“虫の息”となっていた。……」
(9月23日号)