【中島岳志の風速計】 浅田真央のリアリティ
2012年3月15日6:22PM
東日本大震災から一年がたとうとしている。私が震災を思う時、いつも想起するのは死者の存在だ。私たちは、大切な人の死を喪失と捉える。確かに「その人」の姿は見えない。触れることもできない。しかし、喪失は同時に、死者となった他者との出会い直しなのではないか。
私は、二年ほど前、大切な友人を亡くした。彼は編集者だった。いろいろなことを話し、掛け替えのない思い出を共有した。彼がいなければ、現在の私は存在しない。
そんな友人が亡くなった。それからだ。私が原稿を書いているとき、斜め後ろに、彼の気配を感じる。私の主観として、死者となった彼が傍に実在しているのだ。
特に彼のまなざしが気になるのが、原稿を書き飛ばしている時だ。締め切りに追われ、「まあ、このぐらいでいいだろう」と思いながら書いていると、彼の目線を感じる。一時の言葉にならない会話が始まる。
私は、彼の存在を通じて、自己と対峙する。そして、原稿を書き直す。彼が生きているとき、こんなことはなかった。しかし、死者となった彼は、私の傍にいる。気づけばそこにいる。そして、私が誤魔化して生きないように、そっと声をかけてくる。
私は、死んだ彼と出会い直したのだ。私の生を死者となった彼が後押しする。
最近、とても共感する言葉を耳にした。浅田真央さんのインタビューだ。彼女は母を亡くした。その直後の全日本選手権で優勝した彼女は、「お母さんになんと報告しますか?」と問われ、「一番近くにいる感じがしたので、何も報告しなくても分かってくれると思います」と答えた。
これは本当の実感が伴った言葉だと思う。彼女にとって、死者となった母はいつも近くに存在する。だから、あえて報告する意味がわからない。
浅田さんは、予定していたエッセイ本の出版を中止した。〈「ママ、ほんとうにありがとう」何度、ありがとうと言っても足りません〉という宣伝コピーに反発したという。彼女にとって、これほど実感から遠い言葉はなかったに違いない。
死者と共に生きる浅田さんの素朴な言葉と毅然とした姿は、被災地に届いているはずだ。見えない死者と生きる人々にとって、彼女のリアリティは自らのリアリティと直結する。
3・11を傍らの死者と共に迎えたい。
(2月24日号)