元自衛官が「内部文書」元に証言、「私は自衛隊で毒ガスサリンの製造に関わっていた」(5/5)
2013年5月31日7:14PM
毒ガス製造の「編成組織」図
Aさんの提示した一連の文書の中に、「編成組織」との表題のついた組織図があった。そこには、班や係の名称とともに研究員と思われる者や技官、医官らの姓と階級が記されている。
この中に、今も付き合いのある人か連絡がつく人はいるのかと、Aさんに訊いた。Aさん以外の当事者の裏付けをとるためである。
「なにせ四半世紀以上前のことですからね。誰ともお付き合いはありませんし、彼らが今も健在かどうか、連絡先も、どこに住んでいるのかもまったくわかりません」とAさんは言う。「それに」と、Aさんはつけ加えた。
「研究員はみな退官後も待遇がよく、恵まれていますからね。かりに所在がわかり、会ってくれたとしても、本当のことは言わないでしょう」
それももっともだとは思ったが、そうなると、Aさんの証言を裏付けることができない。
私はこの組織図を手がかりに、当時の研究班メンバーの足どりを追った。すると、一人の重要人物に突き当たった。(この続きは『週刊金曜日』の連載でお読み下さい)
◆◆毒ガスと法規制◆◆
〈3/5の年表〉にあるように、1899年に「毒物使用禁止」が宣言されたものの、その後も毒ガスの生産・開発は続けられ、第一次世界大戦(1914年~18年)によって近代的な化学兵器として本格使用されていく。
化学の発展とともに残酷な大量殺戮が可能となり、時の権力者たちは毒ガスの開発・生産に何度も歯止めをかけようとしてきた。しかし結論から言えば、現在に至るも大量殺戮の手段である化学兵器は存在する。四月末には内戦中のシリアでのサリン使用疑惑が報じられた。人間は理性や良心を授けられている(世界人権宣言第一条)のと同時に、同類を殺す本性も併せ持つようだ。
20世紀以降の流れを見ると、1925年に採択されたジュネーブ議定書で戦争時の使用は禁止されたが、開発・生産・貯蔵は禁止されず、米国、ソ連、日本などが毒ガスの生産、使用を続けた。
日本がこのジュネーブ議定書(条約)を締約したのは、敗戦後四半世紀を経ての1970年。Aさんが化学学校でサリンなど毒ガスの製造に関わっていたと証言した時期は、その数年後である。つまり条約上は開発、貯蔵は禁止されていなかった。
日本が95年9月に批准した現行の化学兵器禁止条約では、サリンなどの化学兵器の開発、生産、保有が包括的に禁止されているが、ここにも抜け道がある。
同条約によれば、「生産量が年間一トン以下なら製造施設に当たらない」(第二条8)し、「防護目的」の生産・保有なら「この条約が禁止していない目的」(第二条9)に入る。国際機関である化学兵器禁止機関(OPCW)に申告し(第三条)、OPCWの査察を受け入れればその生産、保有・廃棄などが可能だ。
防衛省によれば、同条約に基づき、1997年から2012年6月までに計8回、OPCWの査察を受け、申告内容に問題がないことが確認されている、という。