「反核燃」の農民運動家――須藤稔さん死去
2013年7月12日2:06PM
来月投開票の参議院選では、山形県の農協政治連盟が自民党に対し、「TPP交渉参加断固阻止」を掲げて叛旗を翻し、他党候補を推薦することを決めた。
同様の“農民一揆”は、二四年前の青森県でも起きている。しかもこの際は、農民らが独自候補を擁立し、国会に送り込むことにまで成功していた。同県六ヶ所村の核燃料サイクル基地(核燃)計画に反対する農民運動のことだ。
そのリーダーだった、元・農民政治連盟青森県本部副委員長の須藤稔さん(八四歳)が六月三日、呼吸不全のために死去した。
「山が動いた」と評された一九八九年夏の参院選で、同青森選挙区(一人区)を「反核燃の県民投票」と位置づけ、「反核燃」の農民代表候補・三上隆雄氏(当時、農政連青森県本部幹事長)を擁立。自民党候補らにダブルスコア以上の大差を付けて勝利を収めた際の仕掛け人であり、立役者だった。
続く九〇年冬の衆議院選でも、社会党候補を二人当選させるという「労・農提携」を実現。全県的な反対運動へと発展した「反核燃」のうねりのため、自民党の現職国会議員までが核燃計画の「凍結」を訴える事態となり、核燃計画は一時、凍結されかねないほどの窮地へと追い込まれた。
核燃推進・反対の事実上の天王山となった九一年の青森県知事選では「反核燃統一候補」を擁立するが、惜しくも敗北。以降、当時の自民党幹事長だった小沢一郎氏(現・生活の党代表)らによって、青森県内の農民運動は徹底的に弾圧され、県内の反核燃運動も衰退の憂き目を見ることになった。
須藤氏は、長く糖尿病を患いながらも、各地の反原発運動を支援すべく全国を駆け回り、「青森県、そして日本の農業を守るために、核燃には反対をしなければならない」と訴え続けていた。その訴えは、東京電力福島原発事故を経た今、説得力を増し続けている。
(明石昇二郎・ルポライター、6月14日号)