【ネット初掲載】鎌田慧の痛憤の現場を歩く「冤罪・袴田事件(上)」
2014年4月1日4:33PM
1966年に静岡市(旧静岡県清水市)で起きた強盗殺人事件で死刑判決が確定した袴田巌(いわお)さん(78歳)について、静岡地裁(村山浩昭裁判長)は3月27日、再審開始と死刑、拘置の執行停止を決定しました。捜査機関による証拠捏造(ねつぞう)の疑いにも踏み込んだ内容でした。
袴田巌さんは同日、逮捕から47年7カ月ぶりに釈放されました。しかし、静岡地検は3月31日、静岡地裁決定を不服として東京高裁に即時抗告しました。再審が開始されるかどうかの判断は高裁に移ります。
『週刊金曜日』は袴田巌さんが無実であることを一貫して主張してきました。一刻も早い再審開始と、袴田巌さんへの無罪判決を願い、問題点がよくわかる2007年の記事を著者の了解のもと、連続で掲載します。
(なお、年齢や年数表記などは初出の2007年当時のままです)
警察が証拠を捏造――無実の死刑囚をつくった
一九六六年六月、静岡県清水市で一家四人が殺害され、現場となった味噌会社の専務宅が放火された。逮捕されたのは、工場内に住み込みで働いていた元プロボクサーの袴田巌さん。苛烈な取り調べが行なわれ、逮捕二〇日目にして「自白」を強要され、死刑判決が確定した。事件から四一年、多くの支援者らによる再審を求める動きが活発化している。
四一年まえの事件だが、未解決である。犯人にされた袴田巌さん(七一歳)は、高層建築に改築された東京拘置所八階に、いまだ死刑囚として幽閉されたままである。
静岡地裁での死刑判決は、一九六八年九月だった。それから三九年がたった。最高裁が上告を棄却し、死刑が確定したのが八○年一一月。以来、いつ処刑されるか、毎朝、目覚めたあと、血の凍るような緊張と恐怖に苛まれながら二七年を送ってきた。袴田死刑囚はいま、現実を忌避したかのように、精神的にとりとめがなく、面会している肉親さえ、いったい誰なのか認識できていない。孤絶した独房にいて、あまりにも過酷な時間を過ごしてきたからだ。
袴田さんが逮捕されたのは、住み込みで働いていた、清水市(現・静岡市)の味噌会社の専務宅が放火されたことによる。焼け跡から四一歳の専務と三九歳の妻、一七歳の二女、一四歳の長男、その四人が身体に無数の刺創傷を遺した焼死体で発見された。一九歳の長女だけが、幸いなことに、線路のむこう側、祖父の社長宅にいて、難を逃れた。
現場は、静岡市郊外の海水浴場として知られている「袖師(そでし)海岸」である。駿河湾に面した海岸線と平行して、西の清水駅、静岡駅へむかう東海道本線がはしっている。線路をはさんで、手前が味噌工場、そのむこうの北側が惨劇のあった専務の居宅である。そのころは、線路の位置はいまよりももっと低かったようだが、このふたつの敷地のあいだを、列車が轟音をあげてとおり抜けていた。その幅三二メートル。四一年たって、さすがに工場は影も形もないが、線路のむこう、全焼した居宅跡には、堅牢そうな土蔵が一棟残されてある。
「ボクサー崩れ」で犯人視
事件があった六六年六月三○日午前二時過ぎ、袴田さんは、工場の二階の居室で眠っていた。一〇畳の部屋は、同僚との相部屋だったのだが、相棒は用心のために社長夫妻宅に泊まっていた。夕方、仕事が終わって寝るまでのあいだ、袴田さんはべつの同僚と、テレビで長谷川一夫の「半七捕物帳」を観ていた。
サイレンの騒音で目を覚ました袴田さんは、「店が火事だ」との声で、部屋からとびだした。線路を横切って専務宅へ駆けつけた。が、同僚たちの調書は、法廷に提出されず、袴田さんの消火活動にたいする証言はない。アリバイは証明されなかった。
警察はその日が給料日だったことから、内部犯行説に傾いていたようだが、月末の集金日でもあったから、日本最大の遠洋漁業の基地として、膨大な味噌の需要を賄っていた羽振りのいい「こがね味噌」が強盗に狙われたとしても不思議ではなかった。線路付近に、八万四八三○円と三万六九四○円、それぞれ小切手がはいった集金袋が二個落ちていた。
この袋を、犯人が逃亡するときに落としたと解釈して、警察は「強盗殺人事件」としたようだ。しかし、専務宅には、一七万二二八四円もはいった信玄袋や一〇〇〇万円以上(現在の一億円以上)にもおよぶ定期預金通帳、架空名義のいくつもの郵便貯金通帳と印鑑などがあった。このほかにも、ネックレスや指輪などの貴金属類が手つかずのまま残されていた。まして、柔道二段の専務をふくめて、一家四人を一挙に、それもひとりで殺害するのは困難である。
袴田さんは、元フェザー級のプロボクサーで、全日本六位にまでのぼり、有望視されていた。が、体調を崩して、事件発生の前の年から、味噌会社で働いていた。その前はバーを経営して失敗、そのうえ離婚調停中で、「ボクサー崩れ」とする偏見が、ほかの住み込み従業員よりも、犯人視されやすい条件を備えていた。
たしかに、食い詰めた拳闘家が、キャバレーの用心棒をしたりする時代があって、ボクサーをなにか凶暴なものとする偏見がつよかった。が、住み込みの労働者たちは、専務宅で食事をしていたし、専務は太っ腹なところがあって、給料以外に、小遣いをくれたり、家族待遇だったから、恨みをもつ理由は別段なかった。はたして犯人は強盗が目的だったのか、それも単独犯なのか。四人にたいする攻撃の執拗さから、怨恨とかんがえられないではない。
家宅捜索によって、袴田さんの部屋から白と水色縦縞模様のパジャマが押収された。テレビを観ていたときに着ていたのは、同僚の証言にもある。当時の新聞記事には、「血染めのシャツを押収」「多量の血こんのついたパジャマ」、そして、「製造係勤務Hの部屋から血ぞめのパジャマ上下を押収」とある。記者は自分の目で確認しなくとも、警察の発表か、あるいは発表がなくても、刑事の耳打ちで、色めき立って記事にする。
その記事の大きさが「袴田犯人説」の雰囲気を醸しだし、ほかならぬ警察官を自縛し、裁判官の心証を形成する。ところが、実際は、「血こんか、サビか、しょう油のしみのあとか、判断できないが、僅かにそのこん跡が認められた」ていどのものだった。
犯行着衣の変更
「ごく普通だね。特徴? ないね。お世辞いうわけではないし、ひとのことをどうのこうのいうわけではない」
袴田さんに「暖流」という名のバーをやらせた、Nさん(八○歳)の話である。旧清水市でも、酒の販売量が多かった彼は、キャバレー「太陽」が得意先だった。ビールケースをダットサンに積んで配達にいくと、すすんで手伝ってくれるバーテンダーがいた。それで仲良くなったのが、ひとまわり歳下の袴田さんだった。「好きな女性がいるんだけど、店をもたないようじゃ、結婚するな、とむこうの親がいうんだ」と、彼にいわれて、売りに出ていた店を引き受け、「いわちゃん」に任せることにした。
新婚の妻がママ、ホステスをふたりほど雇ってはじめたが、ツケを回収できず、一年半ほどで店仕舞い。そのあと、「萬花」などのカウンターバーをはじめたが、これも失敗だった。妻はどこかへ出奔したので、彼は赤ん坊を実家に預け、Nさんの紹介で、「こがね味噌」の住み込みになった。「ばかにいい背広を着ているなぁ」というと、彼は「専務にもらったんだ」とまんざらでもない表情だった。休みの日には、専務のモーターボートを掃除したり、気にいられているようだった。
「バーがうまくいってれば、こんな事件に巻き込まれなかったんだ」
というのは、Nさんには、自分が味噌会社を紹介した、との自責の念がある。カネに無頓着で、財布を握っていなかったから、妻が売上金を浪費してしまった。それで味噌会社に就職して、事件に遭った。
「味噌を容れる桶に、衣類をいれるなんて、考えられないことだ」
とNさんは、つよく批判する。
というのは、犯行時にパジャマを着ていたとする袴田さんの自白では、刃渡り一三・六センチの木工細工のくり小刀で、四人の人間を追いかけて四〇カ所以上の傷を負わせる大奮闘のあげく、あたりを血まみれにしたにしては、肝心のパジャマはきれいすぎて、犯行の凄惨さを裏切ってしまう。それで、警察は事件から一年二カ月たった八月末、すでに公判がはじまっていたのだが、血痕が付着したズボン、ステテコ、緑色ブリーフ、それとスポーツシャツ、半袖シャツなどの五点の証拠が、麻袋にいれられて、味噌タンクの味噌のなかから発見された、と発表する。
袴田さんが自供したのは、八月一八日の逮捕から二○日目、冷房のない真夏の暑い盛りに、連日、一二時間以上も責め立てられたあとだったが、自供では、味噌タンクなどには、ひとことも触れられていない。犯罪を証明する検事の冒頭陳述でも、犯行着衣はパジャマとされていた。
Nさんは、味噌をつくる労働者が、味噌の中に血まみれの衣類を隠すわけはない、という。労働者のモラルとはそのようなものだ。ところが、ご丁寧にも、警察は袴田さんの生家を家宅捜索して、「血染めのズボンの端切れ」を押収した、と発表して、検事は冒頭陳述を変更する。
野球にたとえていえば、センターがボールを後逸したのに、一塁手がズボンのポケットからべつのボールをとりだして、打者をタッチアウトにしたアンフェアである。おなじ冤罪の狭山事件で、埼玉県警の刑事が、三回目の家宅捜索にいって、証拠の「萬年筆」を鴨居に置いたのとおなじ卑劣さだ。
静岡県警で冤罪多発
検事や判事や県警本部長など、司法界のエリート層は転勤して全国をまわる。だから県警独自の体質ではないようにも思える。が、しかし、それでも静岡県警は、「冤罪のデパート」といわれるほどに、警察官による拷問とでっち上げが多かった。
たとえば、四八年一一月に、磐田郡幸浦村で発生した一家四人殺害の「幸浦事件」は、三人の被告に死刑判決が下されたが、最高裁が破棄して四人は無罪。五○年一月に二俣町で発生した一家四人惨殺の「二俣事件」は、裁判の途中で、ふたりの現役刑事が、拷問があった事実を暴露したのだが、その一人は偽証罪で逮捕され、「妄想性痴呆症」という名の精神病としてあつかわれた。それで死刑判決は維持されたが、最高裁がやり直し裁判を命じて、ようやく無罪になった。
五○年五月、二俣事件の半年前に、庵原郡小島村で発生した強盗殺人事件で逮捕された容疑者も、拷問されて自供した。静岡地裁が無期懲役、最高裁の差し戻し決定で、高裁での無罪が確定した。この三つの冤罪事件は、ともに戦争中に検事総長表彰をうけ、「名刑事」といわれていた「拷問刑事」による。
五四年三月、島田市で幼稚園児が遺体となって発見された「島田事件」は、賽銭泥棒の容疑で別件逮捕されていた赤堀政夫さんが自供したが、初公判で犯行を否認した。それでも、静岡地裁は死刑判決を下し、無罪判決、釈放となったのは、三五年後の八九年一月だった。島田事件は免田、財田川、松山とならんで、死刑囚が三○年におよぶ長期勾留のあと、ようやく再審が開始された、四大冤罪事件のひとつとして著名である。
五五年五月、伊豆箱根鉄道、三島田町駅前の丸正運送店で発生した、女主人殺しの「丸正事件」は、在日コリアンのトラック運転手・李得賢さんと日本人の助手・鈴木一男さんが犯人として逮捕された。李さんは無期懲役、鈴木さんは懲役一五年の刑を宣告された。鈴木さんは満期をつとめ、李さんは二二年後に仮出獄となった。八六年一〇月、東京高裁が再審開始を決定したが、即時抗告中に李さんと鈴木さんが死亡。請求は審理途中で終了した。
そして、このあと、六六年に発生した袴田事件があり、最近では九一年八月、交際中の女性の二男を殺害したとして、懲役七年の刑を受けて服役した河合利彦さん(本誌二〇〇六年二月三日号)が、東京高裁に再審請求中である。いずれも、静岡県警が、強引な取り調べによって容疑者を自供させ、それを最大の証拠にして有罪にした冤罪事件である。
(鎌田慧・ルポライター、2007年4月13日号、つづく)
※この記事は単行本『絶望社会――痛憤の現場を歩くⅡ』(小社刊)に入っています。