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【ネット初掲載】鎌田慧の痛憤の現場を歩く「冤罪・袴田事件(中)」

2014年4月2日7:00AM

袴田事件の一刻も早い再審開始と、袴田巌さんへの無罪判決を願い、問題点がよくわかる2007年の記事を著者の了解のもと、連続で掲載します。
(年齢や年数表記などは初出の2007年当時のままです)


「物証は嘘をいわない」――無実の死刑囚の叫び

 まったく身に覚えのないことを、お前がやったんだ、といわれて刑罰を受けるほど、不条理で、屈辱的で、非道な人権抹殺はない。「やっていない」とどんなに叫んでも、刑事、検事、判事が寄ってたかって刑務所に放りこみ、場合によっては死刑台に送りこんで、「一丁上がり」と手をたたいてホコリをはらう。

 その悔しさと無力感は、想像するだけでも、息の詰まる思いがする。それでも、たいがいのひとたちは、自分はただしく生きているのだから、警察に疑われることはないと考え、無実の罪人にはまったく無関心である。だから、冤罪に泣く家族は孤立し、疲れ果てている。

     世界王者たちの支援

 袴田秀子さん(七四歳)によれば、三歳下の巌さん(七一歳)の様子がおかしくなったのは、最高裁で死刑が確定した八○年終わりのころからだそうである。二七年もの間、一日刻みの死刑囚の命なら、神経が破壊されても当たり前である。

 最近は「姉さんとは呼んでくれないのですが、姉ではないとはいわなくなりました」とホッとした表情をみせた。昨年一一月二〇日、三年八カ月ぶりに巌さんに面会できた。毎月、静岡県西のある町から、東京・葛飾区の東京拘置所に面会にいくのだが、せっかく門をくぐっても、自分には姉などいない、と面会を拒否されていた。

 昨年、輪島功一、渡嘉敷勝男、レパード玉熊など、ボクシング元世界王者たちの支援がはじまったのを知ってからか、すこし調子がよくなったようで、今年になってから三回も面会に成功した。会話が「トンチンカン」なのは一回だけ、あと二回は会話らしくなって、「いったりきたりできた」と秀子さんはうれしそうにいった。

 二○○三年三月に面会したときは、「あなたの顔は知らない。知らないひとだ」といわれていた。「なんでここにいるのかわかるか」とたずねると、「神の儀式できまった。一昨年まで袴田巌はいたが、神の国へ帰っただけのこと。死刑執行はできないんだ。死刑は廃止した。監獄は廃止した」などとつぶやくようにいうだけだったのだ。

 ところが、先日、四月一七日の面会では、汚れたセーターを着ているので、思わず「汚れているねえ」というと、「これは暖かいから着ているんだ」とまともな答えが返ってきたのだ。「変なことばっかりいうんで、返事に困っていたんですが、差し入れしてきたよ、とか、こっちから先にいえばいいんです」と会話の要領がわかったのだ。

     拷問で強いた「自供」

 浜名湖ちかくの兼業農家生まれ。巌さんは六人兄姉の末っ子、子どものころは、犬、猫、小鳥などを可愛がっていた。中学校では野球をやっていて、勉強よりはスポーツというタイプ。中学校を卒業して、浜松市のホンダの部品下請けの工場で働きはじめた。無口で芯が強い性格がボクシングにむいていたのか、めきめき頭角をあらわし、国体選手となり、まもなくプロいりする。

 事件のあと三日ほどして、巌さんは子どもを預けている生家に帰ってきた。秀子さんは近所のひととにこやかに立ち話をしている彼を見て、大丈夫だ、とほっとしていた。彼がつとめていた工場の大事件は、そのあたりでも大騒ぎになっていたからだ。本人に聞くと、強盗だかなんだか判らないよ、といっていた。

 と、新聞に「H」が容疑者としてあつかわれるようになり、逮捕された。秀子さんは、「自供」の報道があっても、一審二審死刑、から無罪になって有名な「二俣事件」を知っていたので、どこか高を括っていた。両親は寝たきりとなった。裁判がはじまって、兄弟三人で面会にいっても、彼が熱心に一方的に喋っていたので、勇気づけられて帰ってきた。

「皆様と会わなくなって半年、お変わりありませんか。私も元気でおります。私のことで親類縁者にまで心配かけてすみません。こがね味噌の事件には真実関係ありません。私は白です。私は今落着いて裁判をまっております。私は暖かい部屋にはいっていますので、現在なんの不満もありません。弁護人から聞いたと思いますが、面会が出来るようになったので、会いたいと思います。お袋も姉も大変だと思いますが、(実子の)一郎(仮名)のことお願いします。体に気をつけて、さよなら」

 起訴され、第一回公判をまっていたころ、獄中から母親のともさんにあてた手紙(誤字は筆者が直した)である。「現在なんの不満もありません」というのは、母親に心配をかけたくない心遣いでもあるが、本人自身、裁判がはじまれば無実があきらかになる、と信じ切っていたからであろう。

 どうして自供したのか。やってなければ、自供しなければいいじゃないか、とは常識論である。ジャーナリストの山本徹美さんが、「留置人出入簿」によって計算した清水署の取り調べ時間は、一日最高一六時間二○分、一一時間以上はざらで、それが起訴までの二○日つづいて、合計二四○時間九分。一日平均一二時間である(『袴田事件』九三年刊)。

 これだけでも拷問といえるが、取り調べのやり方は、トイレにも立たせず、「私が大便を我慢できなくなって、その場にうずくまってしまうと、その隙をとらえて、私の指を印肉に突込み、調書らしき書類を私の指に押し付け、他の刑事が私にペンを握らせて書類に導き、ここに名前を書くんだ、と恫喝しながら蹴ったり、腕に逆捻りを食わせたりして署名を奪ったこともあります」(高杉晋吾への手紙、『地獄のゴングが鳴った』八一年刊)。

 地獄の責苦、という言葉を思い出させる取り調べだが、便器を持ち込んでの取り調べは、新聞記事にもなっている。法廷で袴田被告は、取調官にむかって、「一連の自供調書は、あなたご自身、その頭で推理作成したものではないですか」と食いさがっている。

 ほかの冤罪事件ともほぼ共通しているのは、自供が著しく変遷していることと、突然、大量の自供が書かれた調書がでてくることなどだが、刑事はたいがい、「警察はお前の言い分をきくところではない。文句があったら裁判所に行っていえ」といって、勝手に調書を書き進める。

     獄中からの手紙

 六八年、静岡地裁での判決文を書いた、熊本典道元裁判官が、二〇〇七年になって「無実を信じていた」と明らかにした。彼が袴田被告の無実を信じたのは、なぜ、まる二○日間、何回もしつっこく調べなければならなかったか、それは物証がなかったからだ、との推論による。つまり、「物証」は袴田さんに無関係なものだったのだ。

「お母さん! 僕の憎い奴は僕を清浄でない状態にして犯人につくりあげようとした奴です。神さま――。僕は犯人ではありません。僕は毎日叫んでいます。此処、静岡の風に乗って世間の人々の耳に届くことをただひたすらに祈って僕は叫ぶ。お母さん、人生は七転び八起きとか申します。最後に笑う人が勝ちとか申します。又、皆さんと笑って話す時が絶対きます」

 第三回公判が終わった六七年一月の手紙である。彼の手紙は切実悲痛で、そのすべてを紹介したいほどだ。「私は裁判所には無罪が判って頂けると信じています」と書いて、ファイターらしく、「我、敗けることなし」と書き添えたりしている。刑事や検事の批判ばかりではなく、水不足のニュースをきけば農家の困難を心配し、クルマの事故のニュースをきけば、「一郎は大丈夫かな、お母さんよろしくお願いします」と書く。

 獄中で感じられる季節の変化を書いているこまやかさは、やさしい人柄をあらわしている。秀子さんによれば、獄中でペン字を習いだしたとのことで、字はしだいにきれいに、誤字もなくなり、語彙もゆたかになっていく。本の差しいれの要求もふえていた。非識字者だった狭山事件の石川一雄さんもそうだが、獄中での学習の成果には目を見張るばかりだ。味噌タンクから血染めの衣類五点が「発見」され、証拠として法廷にもちだされると、彼はますます楽観するようになる。

「検事より血染めの着衣は被告の持っていた物ではないかと問われた。僕のに少し似ていた。しかし、着衣は世の中に似た物は沢山有る。あの血染めの着衣が絶対に僕の物ではないと言う証拠は、ネームがない事です。僕の着衣はクリーニング屋に出すので、ハカマタと入っています。血染めの着衣にはネームが入っていない。型も大きい。僕の物とは異なっている。事件後一年二カ月過ぎた今日、しかも再鑑定の申請をしたらこうゆう物が出た。これは真犯人が動きだした証拠です。これでますます有利になった」(母親あて、六七年九月)

 事件当時から、味噌タンクにはいっていたものではなく、最近になってから、「真犯人」がいれたものだ、と彼は考えていた。当時の味噌タンクのなかの量を知っているものには、そこに五点もの衣類をまとめて隠して、一年半も発見されないなどとは考えられないからだ。では、だれがいれたのか。それができるのは、真犯人か警察官だけである。

 六八年、一審死刑判決のあと、くりかえしくりかえし、いろんな想念を書いているのだが、便箋に七、八枚、改行なし、溢れるようなモノローグの記述となる。刑事に責めたてられ「自己の生命を守った」という自白の日のことを、こう書いている。

「すでに死にかかっている(被害者の)愛犬の手足を荒縄で縛り、三つ叉に組んだ丸太の横棒に逆さに宙吊りにして、その周りで刑事達が仰々しく湯をわかしたり、包丁を研いだりしていたのである。そういう光景が最近、特に小生の脳裏から離れないのでございます」(すぐ上の兄へ、七二年三月)

 虐殺のイメージである。血染めのズボンが発見されたとき、自分に穿かせてみれば、穿けないので、だれがみても「小生は真犯人になり得ない」と書いている。「刑事達がしたことは、小生にたいする殺人行為以外の何物でもない」

「物証は嘘をいわないものである。神は私の本件における主張のその潔白と真実私が犯人でないことを百も承知ではないか。私がこのように思う夜の次の行為は、きまって一つ、それは頭から布団をかぶるのである。もう、そこは悲しみの涙を忍ぶ必要はない」「私も冤罪ながら死刑囚、全身にしみわたってくる悲しみにたえつつ生きなければならない。そして死刑執行という未知のものに対する果てしない恐怖が、わたしの心をたとえようもなく冷たくする時がある。そして全身が冬の木枯におそわれたように、身をふるわせるのである。自分の五感さえ信じられないほど恐ろしい瞬間があるのだ」(すぐ上の兄へ、七三年一一月)

     手紙はしだいに間遠に

 そしてしだいに手紙は間遠になり、まったく来なくなった。それどころか、面会にいっても会わない。バイ菌とか宇宙とか神とかと口走り、じぶんの世界に閉じこもってしまった。

 静岡市に住む小川秀世弁護士も、秀子さんとなんどか面会にいったことがある。いままでの裁判で、巌さんの書いた手紙があまり活用されなかった、との思いが彼にもある。

 いまの袴田さんの病状は、死刑にたいする恐怖から引きおこされているのだから、無罪判決か恩赦がなされ、生活空間が変われば、改善される。弁護団は、「恩赦出願理由補充書」を提出した。日本も批准している「市民的及び政治的権利に関する国際規約」第六条四項に、「死刑を言い渡されたいかなる者も、特赦又は減刑を求める権利を有する」による恩赦を請求しているのである。

 秀子さんは、医療刑務所への移監をせめてもと望んでいる。そこに置いてくれれば、突然「処刑した」との通知がくることはないからだ。

(鎌田慧・ルポライター、2007年4月27日号、つづく)

※この記事は単行本『絶望社会――痛憤の現場を歩くⅡ』(小社刊)に入っています。

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