実行犯の「証拠はない」が、予断と偏見で懲役12年――ジャカルタ事件判決に疑問
2016年12月14日9:43AM
1986年5月にジャカルタで起きた日本大使館への金属弾発射事件で殺人未遂罪に問われた城崎勉さんの裁判員裁判の判決公判が11月24日に東京地裁第11刑事部で開かれた。辻川靖夫裁判長は懲役12年の実刑判決を言い渡した。
判決は、金属弾の発射元だったホテル客室で採取された指紋2点が城崎さんの指紋と一致したことなどから、「本件殺人未遂の実行犯であるとまでの証拠はないが、少なくとも部屋の確保など重要な役割を果たした共犯者」として、「事件当時、レバノンにいた」という城崎さんの主張を退けた。「犯行動機は明らかではない」とも述べた。米国で18年間服役したことについて、「大幅に刑を減じる事情とは言えない」とした。「推認できる」という言葉が二十数回あった。城崎さんは即日控訴した。
判決は指紋の転写の可能性について、「パソコンが十分に普及していない当時、容易にできたとは考え難い」「露見した場合には重大な問題に発展しかねない計画を日本の捜査機関や米国の情報機関が行なうとは考え難い」と指摘。捜査機関による指紋シートのすり替えも「考えられない」と片付けた。
裁判官3人と裁判員6人・補充裁判員3人は、氷見事件、足利事件、袴田事件や大阪地検のフロッピーディスク改竄などの「日本の捜査機関の証拠捏造」を忘却している。裁判員・補充裁判員の7人(2人は欠席)の会見の中で、「裁判員2」の会社員は「決め手のない事件で、判断が難しかった」と話した。「有罪と認定することに異論はなかったのか」と聞くと、地裁職員が「評議の内容に当たる」と筆者の質問を制止し、隣の「裁判員4」の会社員が「言うべきではない」と小声で発言した。
城崎さんは裁判で、自らが共産同赤軍派メンバーだった時代の金融機関襲撃事件などを「間違いだった」と明言し、自身の超法規的措置での釈放につながった日本赤軍ダッカ事件(77年)についても「人民を盾にするのは支持できない」と述べた。
共同通信は24日の記事(堀野紗似記者)で「実行犯とする証拠はない」との認定を伝えていない。実行犯でないなら懲役12年は重すぎる。共同通信はサイド記事でも「かつて社会を揺るがした過激派の面影はなかった」「裁判長が判決理由を読み上げ、傍聴席の支援者から『不当判決だ』と声が上がった時も振り返らない」などと伝えた。また、「無罪となった後の生活を聞かれて『故郷の富山に帰って余生を過ごしたい』と話す姿に、過激派の面影はなく、時代の流れを感じさせた」とも書いた。予断と偏見に満ちた記述だ。
【ダッカ事件の復讐か】
筆者は判決翌日の25日、東京拘置所10階の面会室で城崎さんに取材。城崎さんは次のように話した。
「裁判長は冷や汗をかいていた。恥ずかしい判決だから、それが顔に出ていた。ふざけた判決だと、怒りを込めて、裁判長をにらみつけていた。裁判長は一度も私と目を合わさなかった」
「親分の米ワシントン連邦地裁が禁錮30年の判決を出しているので、属国の日本の裁判官たちはそれと違う判決を出せなかった。裁判員は私に偏見を持って裁判官に従った。実行犯だという証拠はないが、爆弾発射に適したホテルの部屋を確保したのは間違いないという判決だったが、それなら実行犯は誰なのかを究明すべきだ。実際、米国の捜査で、発射台を作った大工は3人で来た実行犯と3回会っていると証言しているが、その大工は行方不明になっている」
「この判決は、(ダッカ事件の)奪還作戦に応じたことへの復讐ではないか」と聞くと、「そうだろう。裁判長は被告人質問で、日本赤軍の指名に応じなければ、2、3年で出られた。私なら主張の異なる党派の指名に応じないが、などとしつこく聞いた。『あんたには言われたくない』という気持ちだった。私を必要とする人がいるならと思って応じた」と答えた。パレスチナ現地のレジスタンスから学んだという城崎さんは「米帝国主義と闘うという姿勢は変わらない」と強調した。
(浅野健一・ジャーナリスト、12月2日号)