船村徹の通夜へ(佐高信)
2017年3月16日5:29PM
2月22日、作曲家の船村徹の通夜に行った。古賀政男の評伝『酒は涙か溜息か』(角川文庫)を書く時も取材に応じてもらったし、『俳句界』の対談にも出てもらったからである。彼が常宿にしていた東京・九段下のホテルグランドパレスの地下の寿司屋でも何度かバッタリ会った。
栃木県出身の船村は私に、
「落合恵子さんとは同郷ですが、親しくされておられるようですね。今度は三人で会いたいですね」
と言っていたが、それは果たせなかった。船村は落合の母親を知っていたという。
土井たか子は演歌嫌いながら、船村の一番弟子の北島三郎と交友があり、誕生日に電話口で「ハッピー バースデー」を歌ってもらったと話していた。
それを伝えると、船村は、
「社民党はイデオロギーからいっても、ワークソングである演歌を好きになってもらわなくちゃ困るな(笑)。北島も不運なヤツで、食えない時代、ぼくの栃木の田舎に帰して、田の草取りや麦を育てたりさせた時期もあったんですよ。おかげさまでいい弟子として育ってくれました。船村徹同門会というのがあって、彼は会長です。ただ、唯一ヤツの欠点は奈良漬でも酔っ払うところですね。酒が一切ダメなんですよ(笑)」
と語っていた。
2005年夏に『俳句界』で対談した時である。
その船村の「生まれかわっても弟子になりたい」という北島は通夜の席で涙ぐんでいた。やはり、早すぎるという思いなのだろう。
編曲家の若草恵は私の母の妹の息子で従弟になるが、通夜の席では受付にいた。私との関係を知って船村は、
「若草君も、ひばりさんの『愛燦燦』など、いい仕事をしていますね」
と言ってくれた。
船村は30歳を目前にして、事情があってデンマークのコペンハーゲンに滞在したことがある。
留守にすることも多いので、きちんとしたメイドを雇いたくて募集広告を出したら、応募は結構あったのだが、最終的に日本人ということがわかると、「恐い」と言って断られた。そのころはまだ、「カミカゼ、ハラキリ」のイメージが強かったのである。
この時、船村はフランスのシャンソン歌手、ジョルジュ・ムスタキの指導をしている。
2歳下のムスタキにひばりの歌などを歌わせたのである。
もちろん、ムスタキが無名のころだった。
横浜刑務所の“専属”だった
「ムスタキといえば、私の友人の小室等さんなど、神のように崇めていて、知る人ぞ知る偉大なアーティストです。どういうキッカケで?」
と尋ねると、船村は、
「そう、ムスタキ君ね。昔は飯炊きだかムスタキだかわからんかったけど(笑)。ぼくと彼とがなぜ、といまでもよく訊かれますね。彼は、ぼくがコペンハーゲンに住んでいた時代の弟子の一人です。敗戦後の日本では、海外旅行なんて夢のまた夢。まだ業務渡航しか許されない時代、一九六一、二(昭和三十六、七)年ころでした」
と答え、詳しく語ってくれたが、それは省略しよう。
船村がいつも行っていた横浜刑務所のカラオケ大会の話で結びたいからである。
「船村さんはよくいらしてるんですよね」
と水を向けると、船村は、
「もう専属のようなものですから」
と笑い、こう続けた。
「審査に行っています。忙しくてぼくが行けないときは弟子が代わりに行く。刑務所では拍手以外はすべて禁止で、掛け声や合いの手など一切禁止。だから歌に対してストレートで、いいお客ですよ」
(さたか まこと・『週刊金曜日』編集委員、3月3日号)