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「原爆の図」と僕(小室等)
2017年6月4日6:52PM
原爆の図丸木美術館で開館五〇周年特別展示「本橋成一写真展〈ふたりの画家 丸木位里・丸木俊の世界〉」が七月一七日まで開かれている。五月五日の開館記念日のイベントでは、八〇年代に美術館に通い夫妻の日常を撮り続けた本橋さんと僕の対談があり、その後、僕のライブも。会場では、五〇周年を期に立ち上げられた「原爆の図保存基金」の呼びかけもあった。
〈「自然豊かな環境の中、作品を間近で見てほしい」という丸木夫妻の意向に沿い、ケースには入れずに展示。しかし、虫食いの白い部分が点在するなど、表面の劣化が進んでいるため、5億円を目標とした寄付を募っている。基金は温度・湿度管理や防虫機能を充実させた新館の増築費用や、デジタルアーカイブの整備に充てる〉(『毎日新聞』)。実現を切に願う。僕も基金呼びかけ応援メッセージを書かせてもらった。一部、再録。
「あれほどの個性と才能を持った者同士の合作など考えられようもないことなのに、なぜ位里先生と俊先生の合作はあり得たのだろうか。互いの表現を激しく受け止め合い、激しく否定し合うことから生じる厳しい批評性が、作品をさらに強固な芸術作品に高めたのかもしれないと、僭越にも思う」
「原爆の図」をはじめて間近に見たとき、僕はひるんだ。
「徹頭徹尾リアルに描こうと思った…」(『スライド ひろしまを見たひと─原爆の図丸木美術館─』解説より)と位里先生は言う。おふたりが身内の安否をたずねて広島に帰ったのは、原爆投下の三日あと。「爆心地を証言する人は死んだ。ふたりは、辛うじて生きのこった被爆者の話しを聞き、想像と写実のギリギリの接点で、あの日のヒロシマを描いた」(同)ことに僕はたじろいだのだろうか。
五月五日、相変わらずたじろぎがなかったわけではないが、しかし、おふたりが描かれた目をそむけたくなる光景の、久しぶりの「原爆の図」は、同時にすごく美しくもあった。愛などという言葉を安直に使うことを避けたいと思っているけれど、おふたりの描かれた「原爆の図」は愛に溢れていた。
あの日、広島、長崎で起きたことを持ち運ぶことはできないけれど、「原爆の図」は持ち運びが、たやすいことではないが可能だ。持ち運び可能な広島、長崎をおふたりは芸術作品として残してくださった。完成される新館で大切に収蔵していただき、ときどき、日本の優れた運搬技術で世界へも訪れ、その悲惨と美と愛を、とくに子どもたちに見てもらえたらどんなにいいだろう。そして、世界の要人たちにも見せたい。駆け付け警護より、百万倍も平和のためになる。
(こむろ ひとし・シンガーソングライター、5月19日号)