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「シェア」は、一体化ではなく分断化(浜矩子)
2017年7月17日1:10PM
新約聖書の中に次のくだりがある。「パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです。」(使徒パウロのコリントの教会への第一の手紙10.17)幼い頃から繰り返し聞き、そして読んでいるお馴染みの一節だ。
ところが、先週のミサでこの箇所が朗読された時、思いもよらぬイメージが閃いた。なるほど、これがホントのシェアだな。そう感じたのである。
ご承知の通り、最近の世の中、シェアがはやる。シェアハウス。ライドシェア。政府が規制緩和対応で躍起になっている民泊もまた、シェアビジネスだ。これらを総称してシェアリング・エコノミーなどという言い方も出現している。このシェアリング・エコノミーの拡大を、いかにしてGDP(国内総生産)統計に反映させるか。日本のGDPを少しでも大きく膨らませたい安倍政権が、この辺りでも血眼になっている。
シェアリング・エコノミーと、聖パウロがいう「大勢でも一つの体。一つのパンを分けて食べるから。」におけるシェアはどう違うか。シェアハウスで一つ屋根の下に住んでいる人々は、大勢でも一つの体だといえるか。ライドシェアで自動車に相乗りしている人々は、大勢でも一体化しているか。民泊の宿主とお客さんは、どこまで一体感を味わうか。
聖パウロの手紙とシェアリング・エコノミーの違いは、分かち合いと分け合いの違いだ。筆者にはそう思える。互いに分かち合う者たちは、一つのものをみんなで共有している。どこまでが自分のもので、どこからが他者のものかは、分かち合いにおいて判然としない。これに対して、分け合いは、まさに、どこまでが自分のものでどこからが他者のものかを仕切る作業だ。一体化ではない。分断化だ。
「分け前」という言葉がある。これも、英語でいえばシェアだ。押し込み強盗に入った泥棒たちが、それぞれ自分たちの分け前を要求する。少しでも、自分の取り分を多くしようとして、分捕り合戦を繰り広げる。そこには、分かち合いの精神は微塵もない。
ライドシェアしている時、たまたま相乗りすることになってしまった乗客たちは、車中の空間の中で、それぞれの分け前を確保して、互いに気配を消している。車中の空間を共有して一体化しているわけではない。
シェアハウスの中でいざこざが起きる。怖い事件が起きる。それはなぜか。そこに分け合いがあっても、分かち合いがないからだろう。大勢がバラバラのまま、一つ家の空間を切り分けて住んでいる。下手をすれば、せめぎ合いと摩擦の温床だ。
シェアには、市場占有率の意味もある。この場合のシェアは、奪い合いの対象だ。シェア争いに分かち合いが入り込む余地はない。
聖パウロが描くシェアの世界からは、一つのパンを分かち合うもの同士の思いやりが伝わってくる。思いやりはすなわちケアだ。シェアを分け合いから分かち合いに昇華させるには、そこにケアがなければならない。かくして、目指すべきは、ケアリングシェア・エコノミーである。
(はま のりこ・エコノミスト。6月30日号)