「失われた20年」はむしろ「正常」(高橋伸彰)
2017年11月13日6:29PM
経済成長とは統計的にみればGDP(国内総生産)の拡大にすぎない。今回の総選挙で安倍晋三首相が自らの政策で過去最大になったと喧伝した名目GDPの「かさ上げ疑惑」については、佐々木実氏が本誌(10月20日号)で指摘した通りだが、いくらかさ上げしてもそれだけで人々の実感する豊かさや幸福感は高まらない。経済学者の小宮隆太郎が47年前に喝破したように「そんなことは経済学の常識」(『週刊エコノミスト』1970年11月10日号)である。
だが、戦後の日本では経済学の常識を超えて、経済成長は日本経済の「シンボル」のように捉えられてきた。安倍政権が実質2%、名目3%の持続的成長を日本経済再生の目標に掲げる理由もここにある。
確かに机上の計算では成長の効果は絶大だ。名目3%で成長すれば現在約540兆円の名目GDPは10年後に約726兆円となり、税収のGDP弾性値を1と仮定しても自然増収だけで国の税収は約20兆円増える。
しかし、成長できなければ自然増収は幻想に終わり、そのツケは財政赤字の累積となって将来世代の負担になる。1997年度末には258兆円だった国債残高が2017年度末には865兆円と、20年間で607兆円も増えるのは歴代の政権(大半は自民党政権)ができもしない成長目標を掲げて財政再建を怠ったからだ。
だから成長幻想は捨て、成長に依存しない財政再建策を立てるべきだと筆者は20年以上前から提言(『中央公論』1996年3月号)してきた。これに対し成長派のエコノミストから返ってきたのは、「成長が必要ないと言うなら、これから増える所得はすべて寄付しろ」という意味不明の反論だった。
誤解がないように付言すれば、成長は必要ないと筆者は言っているのではない。責任ある政権なら不確実な成長に依存せず、ゼロ成長でも国民生活の安心を保障する実現可能な分配政策を示せと主張しているのだ。
実際、ゼロ成長になったからといって企業のビジネスチャンスが枯渇するわけではない。毎年GDPの10%近い市場で新陳代謝が起きると想定すれば、ゼロ成長でも毎年50兆円の新しい市場が創造される。その大きさは1997年以降のゼロ成長下で普及したインターネットやスマホ、薄型の液晶テレビやDVD、あるいは通販や宅配など新しい製品やサービスの急速な市場拡大をみれば一目瞭然である。
また、今後、生産年齢人口(15〜64歳)の減少が予想される中では、労働者1人あたりの生産性が毎年1%程度上昇しなければゼロ成長すら維持できない。そこで生産性上昇に見合う賃上げが実現されるなら、ゼロ成長下でも定昇に加え毎年1%のベアを獲得できる。ゼロ成長とはけっして悲観的な経済ではないのだ。
いまだに持続的な成長こそが「正常」だと思い込んでいる政治家には、ゼロ成長は危機に映るかもしれない。しかし、人類の長い歴史を振り返れば成長がいつまでも続くほうが「異常」であり、97年以降の「失われた20年」はむしろ「正常」である。そう考えれば「正常」への回帰を危機と呼び、成長に固執して財政再建を先送りするアベノミクスは最初から狙う的を間違っていたと言えよう。
(たかはし のぶあき・立命館大学国際関係学部教授。11月3日号)