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自民党最期のハト派、野中広務逝く(佐高信)
2018年2月24日5:42PM
ベストセラーとなった辛淑玉さんとの共著『差別と日本人』(角川oneテーマ21)で、野中さんが「二、三回ぐらいしか対談したことないけども、佐高信も案外気が合うんですよ。喧嘩もしたけど」とエールを送って下さったのには恐縮しました。
2004年12月8日には憲法行脚の会が「ノーモア12・8の集い」を開き、野中さんに土井たか子さんと対談をしてもらいました。司会役の私が「いま何が一番、戦前と似ていると思いますか」と尋ねたら、野中さんはこう答えましたね。
「それは情報統制。テレビに出ている人は本当に恐い話をしている。厳しい意見をいう評論家などはテレビをいつの間にか降ろされている。雑誌でも同じです。なぜアメリカが始めた戦闘を日本が支持しなければならないのか」
特に小泉(純一郎)首相に批判的だった野中さんは、メディアにも怒っていました。イラクのサマワに派遣された自衛隊の取材活動について、日本新聞協会と日本民間放送連盟が自衛隊と協定を結んだのはおかしいというのです。
野中さんは、これをマスコミの自殺行為とし、百歩譲ってどうしても協定を結ばなければならないというのなら、軍隊である防衛庁(現防衛省)ではなく、内閣府とするべきだ、と。「内閣総理大臣の下にあるシビリアン・コントロールを、マスコミが否定した」のは本当に情けないという野中さんの腹立ちは当然でした。
忘れられない「加藤の乱」後の言葉
野中さんとは選挙の応援でも一緒になりましたね。
橋下徹が大阪市長選に立候補した時、野中さんと私は相手の平松邦夫候補を応援して選挙カーに同乗しました。
また、土井チルドレンの中川智子宝塚市長の決起集会でも同席しました。
野中さんも言っているように「喧嘩」もしました。
たとえば、1999年12月27日の関西テレビの「アタック この一年」です。恒例の年末回顧番組で、当時、自民党の幹事長代理だった野中さんは自民党本部から中継で参加しました。
そこで私はストレートに、
「自由党の小沢一郎氏はもちろん、公明党の神崎武法氏に対しても、野中さんはかなり厳しい批判者だったのに、自民党と自由党および公明党の、いわゆる自自公連立を推進したのは納得がいかない」
と尋ねました。
それを予想していたかのように、
「(小渕恵三内閣の)官房長官として政権を運営するためには致し方なかった」
と野中さんが弁明したので、
「では、役目として連立したのであり、本心では、小沢氏や神崎氏への批判は変えていないということですか」
と追及すると、野中さんは顔を歪ませて、同じような答を繰り返しましたね。
番組が終わってから、大阪のスタジオで一緒に出ていた弁護士の中坊公平さん(当時は時の人でした)が、
「野中さんは佐高さんにああいう質問をされるのがよほど厭だったんでしょうね」
と感想をもらしていましたから、やはり、歓迎しない質問だったのでしょう。
いまは亡き加藤紘一さんが森喜朗内閣への不信任案に賛成すると発言して、「加藤の乱」を起こし、野中さんを中心とした当時の自民党執行部に鎮圧されて、しばらく経ってから、野中さんと私は東海道新幹線で一緒になりました。その時、野中さんから、
「加藤さんを首相にできなくて申しわけありません」
と謝られたのが忘れられません。
加藤さんと同郷の私にそう言ったのは、ハト派の彼をトップにすることができなくて残念という意味でしょう。あの後はタカ派の天下になってしまいました。
(さたか まこと・『週刊金曜日』編集委員、2018年2月2日号)
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