【憲法を求める人々】平野貞夫
佐高信|2018年4月26日6:28PM
最初の印象は極めて悪かった。いまからおよそ20年前の1999年8月4日、私は参議院の法務委員会の公聴会に公述人として出席し、盗聴法反対の意見を述べた。
私のほぼ正面に委員長の荒木清寛がすわり、私から向かってその右に、円より子、大森礼子、そして平野が並んでいた。荒木と大森が公明党で円が民主党、平野は当時自由党である。党首の小沢一郎の“悪知恵袋”と言われた平野は賛成の立場から私に質問して、「先生の発言には3割は共感する」などと持ち上げるようなことを言うので、私は「平野さんに3割も共感されるようでは、私もまだまだ毒の盛り込み方が足りないということですな」と返した。
その平野が、盗聴法に反対の立場をとる円を動揺させるようなことをする。辛淑玉や田中康夫、そして私などと反対運動を推し進めていた宮崎学が、自らのインターネットのホームページに、円も民主党だから、いつ賛成にまわるかわからないなどと書いていたのを、「こんなこと書かれているよ」と円に見せたのである。
ある時の反対集会で、円が平野にそう言われたと発言し、私はあわてて宮崎を呼び出して議員会館の円の部屋を訪ね、宮崎に頭を下げさせたことがあった。
そのころ私は54歳、10歳年上の平野は64歳だが、油断のならない人だという印象を持った。
それが1年経って一変する。2000年の11月15日、参議院の憲法調査会で私は参考人として話した。もちろん、護憲の立場からで、その時、改憲の立場から意見を述べたのが西部邁だった。それを平野は聴いていたのである。
終わって寄って来た平野は開口一番、「今日は高知の話を二つもしてもらって」と相好を崩し、さらに「私は憲法については土井(たか子)さんと同じ意見なんですよ」と言う。意識していなかったが、私は平野の郷里の高知に触れて二つも話したらしい。
確かに、まず、民主主義はアメリカの発明ではないとして自由民権運動のことを述べ、土佐の民権婆さん、楠瀬喜多を紹介した。
次に、湾岸戦争に際して、日本人はカネは出すけれども血は流さないという非難が高まった時に、高知のある高校生がアメリカの著名なコラムニスト、ボブ・グリーンに英語で手紙を書き、日本には憲法9条があるから軍隊を出さないのだと説明した。それを読んだグリーンがそのことをコラムに書き、それを知ったアメリカ人から、その高校生に多くの手紙が寄せられたのである。そこには、異口同音に「知らなかった」「アメリカにも9条がほしい」といった感想が書かれていたという。
だから、この9条をこそ世界に輸出すべきではないかと私は強調したのだが、それが平野の琴線に触れたのである。
土佐清水出身の平野は、同郷のジョン万次郎の会をつくって小沢を会長にかつぎあげたりしている。
宏池会の総帥だった前尾繁三郎が衆議院議長の時の秘書をやったり、やはりユニークな政治家だった園田直が副議長だった時の秘書をやったりしたために、平野は策士と呼ばれることがあるが、法政大学で遠山茂樹に近代史を学び、丸山眞男に傾倒したアカデミックな一面を備えている。
若き日に共産党に入党することを真剣に考え、吉田茂と並び称せられる林譲治に止められて衆議院の事務局に放り込まれた平野の血は80歳を超えたいまも熱い。
(さたか まこと・『週刊金曜日』編集委員、2018年4月6日号。画/いわほり けん)