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ハイエク、「政府で仕事をした経済学者は堕落する」
高橋伸彰|2018年9月10日7:00AM
新自由主義の元祖と言われるハイエクは、自ら積極的に新自由主義者を名乗り、そう呼ばれることに誇りさえ抱いていた。それは古い自由主義者のままでは、新しい変化に臆病な保守主義者と混同される危険があったからだ(『自由の条件3』)。実際、ハイエクは予想できない新しい変化を規制や保護で抑えるよりも、市場の調整に任せるほうが望ましいと主張した。
社会経済学者の松原隆一郎氏(「ケインズとハイエクを分かつもの」大航海 No.61,2006)によれば、ハイエクは「政府vs.市場」といった二者択一の構図で自らの経済理論を展開したのではない。政府の規制や計画の影響を受けずに、個人が自らの目的に近づくためには、どのような秩序にしたがって行動すれば、社会に広く分散している知識や情報を効率よく利用できるかをひたすら問うたのである。
ハイエクは、政府よりも市場のほうが経済的に効率的だから「民間にできることは民間に任せれば良い」とは言わなかった。何が効率的で、何が最適かについて政府はもちろん、だれも知らないから、それを見つけるために自生的なルールに基づく非人格的なメカニズム(市場)が必要だと説いたのである。
ハイエクの唱えた新自由主義と、市場原理主義者の「新自由主義」(ハイエクと区別するため「」を付す、以下同じ)との間には大きな違いがある。経済地理学者のデヴィッド・ハーヴェイ(『新自由主義』)によれば、大企業や富裕者などがより多くの利益や所得を得られるように、地球規模で市場的自由の普及・拡大を図ってきたのが「新自由主義」の正体である。
そのために、自然環境や教育・医療、社会保障といった分野にも、民営化や規制緩和によって市場を創出し、可能な限り自由放任にすることを政府に求めた。「新自由主義」にはオリジナルな経済思想など何一つなく、「マネタリズム、合理的期待形成論、公共選択理論、そしてサプライサイド理論」など、自らの主張に都合の良い経済理論を整合性も体系性もないまま場当たり的に動員したに過ぎないとハーヴェィはいう。
時の政権とは一線を画した理論経済学者の宇沢弘文は、政府の審議会に参加し自らの意見が実際の政策に反映されるか否かで、研究の成果を評価しようとする経済学者を「表面的なプラグマティズム(実用主義)」に支配されていると批判したが、ハイエクも「政府で仕事をした経済学者はみんな、政府で仕事をする結果として堕落する。なぜなら経済学者ではなく、政治家になってしまうからだ」(『ハイエク、ハイエクを語る』)と述べた。
小泉純一郎元首相に登用され「小泉改革」の司令塔を務めた竹中平蔵氏は、かつて政治学者の山口二郎氏との討論(『中央公論』2008年11月号掲載)で、新自由主義者かと問われ「私のどこが新自由主義者なのか」と強く反論したが、ハイエクからみれば竹中氏は新自由主義者でもなければ経済学者でもなく、政治家に他ならない。政策を売り歩く経済学者は跡を絶たないが、それが堕落の始まりであることを見落としてはならないのである。
(たかはし のぶあき・立命館大学国際関係学部教授。2018年8月3日号)
※書名『自由の条件3』の「3」はローマ数字。ローマ数字は機種依存文字なので洋数字で表記しました。