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死してなお政権揺さぶる翁長雄志氏

阿部岳|2018年9月12日2:46PM

翁長雄志氏の死去により9月30日に投開票される沖縄県知事選挙。問われているのは、民意や自己決定権が蔑ろにされる政治に終止符を打てるかどうかだ。

死去3日後に開かれた新基地建設反対の県民大会で、翁長氏が座るはずだった壇上の席には形見の帽子が置かれた=8月11日、沖縄県那覇市。(撮影/阿部岳)

自らの死によって、新基地建設工事を止めた。不利が予想された知事選の情勢を一気に流動化させた。翁長雄志氏は最期の最期まで政治家であり続けた。

「仕事は政治。趣味は政治。生きがいも政治」。近くで接してきた人の評である。「寝床に就いても、風呂に入っていても、ああ聞かれたらこう答えよう、こんな言い方だと笑いが取れる、と考えているような人」だった。

政治家の武器である言葉を磨き抜いた。自民党沖縄県連幹事長時代の最大のヒットは、1998年の知事選で大田昌秀氏を倒した時のキャッチフレーズ「県政不況」だろう。

大田氏は米軍基地集中に怒る民意を背に普天間飛行場の返還を求め、政府が名護市辺野古への移設を持ち出すと反対して、今に続く問題の扉を開いた。政府は補助金の蛇口を絞り、閉塞感を演出。翁長氏がひねり出した「県政不況」という言葉は県民の不安感をうまくすくい上げ、新人稲嶺恵一氏を知事の座に押し上げた。

この選挙で、「革新共闘」の一員として大田県政与党を担っていた公明党が自主投票に転じ、事実上稲嶺氏を支援した。その後、自民党との共闘を深め、中央で連立政権を組むまでになる。今、この国を動かす自公体制の源流を作った立役者の一人が、翁長氏だった。

その翁長氏が2014年の知事選に新基地建設反対を掲げて出馬し、自公政権を厳しく批判した。180度にも見える姿勢転換の背景には、その間に極まった「日本の政治の堕落」があった。政権交代を果たした民主党(当時)が「最低でも県外」を探り、移設に協力を呼び掛けた時、応じる本土の自治体はなかった。民主党も結局、まやかしの「抑止力」論を受け入れ、新基地建設推進に転じた。

事故が多発する米軍輸送機オスプレイの普天間配備は、自民党から共産党まで、文字通り「オール沖縄」が反対した。13年当時、那覇市長だった翁長氏を含む沖縄県内全市町村の首長と議会議長が上京したが、政権に復帰した安倍晋三首相は聞き入れなかった。

首長らの銀座デモには、レイシストたちが「売国奴」「日本から出ていけ」などとヘイトスピーチを浴びせた。道行く人は、デモとヘイトのどちらにも関心を示さなかった。自民も民主も、ネトウヨも一般人も同じ。沖縄に基地を押し付けながら、恥じる様子もない。本土の実態を肌で感じた翁長氏の表情は終始硬かった。

そんな状況下で、当時の知事、仲井真弘多氏が政府に迎合し、公約を破って基地建設を受け入れた。沖縄県民の怒り、嘆き、悲しみが極点に達した時、保守の側から中道の位置に歩み出て、それを受け止めたのが翁長氏だった。「イデオロギーよりアイデンティティ」「誇りある豊かさを」。ここでも、その言葉は県民の心をつかみ、仲井真氏を大差で下した。

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