『新潮45』問題から東京五輪後のLGBT運動を想像する
古怒田望人|2018年9月27日12:03PM
猶予としての「2年」
確かに、この国は性的マイノリティにとって、先人の努力もあり、住みよい国だ。私が女装をして原宿でパンケーキを食べていても、高円寺で古着を眺めていても罵倒されることも、暴行されることもない。それは日常の一部だ。
ただ、どこにでもLGBTが基本的にいられるという意味で「ローカル化」し分散したからこそ、問題意識や学知、そして歴史の共有は困難になっている。
もう空白の30年も、それぞれが抱える問題も、自由になったLGBTにとっては関係のないことなのかもしれない。「好きに生きればいいじゃない」、そう最近言われたことがある。
けれど、「性」とはきわめて政治的なものだ。研究者のゲイル・サラモンは、生物学的な性としての「セックス」が、「国の管理物としての性」であるという概念を提唱している。それは私たちが生まれた際に戸籍や証明書に記載され国の管理下におかれる、ほとんど可視化されることのない性器を基準とした「紙面上の性」である。実際、トランプ政権はオバマ政権が打ち出したさまざまなLGBTへの政策をこの「国の管理物としての性」の名の下に次々と廃止している。いくら社会的、文化的に別性として扱われていても、トランプ政権はこの紙面上の性に基づいて、トイレ使用のようなLGBTの公共空間への係わり合いを拒絶しているのである。
オリンピック後、経済価値をもたないLGBTの存在や運動は、性が根本的に国の管理物である以上は、抑圧され排除されるだろう。つまり、LGBTに対するバックラッシュが生じることになるだろう。その時、ローカル化し、空白の30年のなかでリテラシーを失ったLGBTに何か抵抗の運動ができるだろうか。私たちに与えられた猶予はあと2年だけだ。
(初出:『週刊金曜日』2018年9月7日号)
【筆者情報】
古怒田望人(こぬた あさひ)
大阪大学大学院博士後期課程。
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