【憲法を求める人々】辛淑玉
佐高信|2018年10月1日6:30PM
私がホストとなって『世界』で「日本国憲法の逆襲」という対談をやっていたことがある。これはのちに同名のタイトルで岩波書店から出たが、第2回のゲストが辛だった。ちなみに第1回が田原総一朗で第3回がむのたけじである。
この時、辛は憲法を「いまの日本人にはもったいない」と言った。「新しい憲法をつくって半世紀経っても、日本は変わってない」と痛撃した辛は、憲法を「朝鮮人には関係ないな」と思ったと続ける。
「たとえば言論の自由、職業選択の自由、というのは在日にとっては実感の伴わない言葉です。ニューカマーを除く在日朝鮮人は九割が日本名で生活をしていますから、表現の自由もない。朝鮮人とわかってしまうと生活しづらい。職業なんて医者と水商売以外思いつかなかった。当時私は韓国国籍をもっていませんでしたから、海外への移動の自由もなかったのです」
そんな辛の憲法九条の読み方が私には鮮烈だった。
「憲法九条というのは、口だけで国を守れ、つまり外交で国を守れということじゃないかと。つまり『ヤバいな』と思ったらさっさと退いたり、悪いと思ったら『あ、すいません』とさっさと謝ったり、いけると思ったら迷わず決断するとか、かつて戦中の日本人がみじんももっていなかった人間的特性みたいなものを身につけることを求めたのだと思ったのです」
しかし、日本人は憲法は大日本帝国憲法から日本国憲法に変えたけれども、日本人そのものの体質を変えることはなかった、と辛は指弾する。
では、日本国憲法が求めたのは具体的にどんな人間像なのか? 辛が挙げたそれに私は瞠目した。
「たとえばペルーの日本大使公邸人質事件のときのあの赤十字国際委員会代表のミニグ氏です。あのとき、ほんとうに人質の命を助けたのはミニグさんです。権力の銃口とゲリラの銃口の間をバギーバッグひとつひきずって何度も往復して、人質を励まして、医者を連れて行き、食糧を与え、しかも飄々と威張ることもなく、『赤十字』というゼッケン一枚をつけて、あの紛争のなかを入っていったのです」
そして辛は「国際紛争のなかに、日本国憲法というゼッケンひとつつけて、日本は一度として入っていったことがあるのか」と批判しているが、あるいはその精神で行動しているのが「ペシャワール会」の中村哲かもしれない。
辛はまた、好きにならなくていい、嫌いなら嫌いでいいけど付き合うという関係が日本人はなかなかできない、と嘆く。
「国際社会というのはみんな仲が悪いのです。いやなやつがたくさんいる。でも、いざというときに手を取り合える関係をどうするのかが大事であって、いつでもべったり仲良くしている必要はない」というのも至言だろう。
田原総一朗が司会をするテレビ朝日の「異議あり!」という番組に一緒に出た時、小林よしのりが、
「従軍『慰安婦』だったと名乗り出た人たちは、結局おカネが欲しいんでしょ」
と自らの卑しさをさらけだすようなことを言った。それに対し、
「それはあまりに人間を侮辱した言い方でしょう」
と辛は煮えくり返るような胸中の思いを抑えて静かに反論したが、終わった後、うまく援護できなかったことを詫びたらテーブルに突っ伏した。以来私は辛を泣かせた男になっている。
(さたか まこと・『週刊金曜日』編集委員、2018年8月31日号。画/いわほり けん)