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アイヌ英雄像差し替えが暗示する政府の“だまし撃ち”
平田剛士|2018年11月21日10:30AM
掲げた2枚はどちらも同じ人物をモチーフにした立像の写真だ。撮影場所も同じ、北海道新ひだか町静内の真歌公園である。
モデルは、1669年、台頭する和人勢力(松前藩)に対するレジスタンス戦争を指導し、非業の死を遂げたアイヌの英雄シャクシャイン(生年不詳)。
右の像が長い杖を空の彼方に差し伸ばしてエネルギッシュなのに対し、胸の前のたなごころに視線を落とした左の像はずいぶん内省的に映る。同一人物をかたどったにしては、見る者の受ける印象は正反対と言っていい。
右は地元のアイヌ有志団体「シャクシャイン顕彰会」によって1970年に建立された。その老朽化が激しいとして、NPO法人新ひだかアイヌ協会が監修・制作し、この9月に披露したばかりの新像が左の像だ。旧像は「胆振東部地震で倒壊の危険性が高まった」との理由で町役場(像の所有権者)によってすでに撤去された。
もの言わぬ立像とはいえ、この「シャクシャインの印象の差し替え」は、最近の日本政府と先住民族アイヌとの関係の変化を示唆しているように思える。ただしそれは、先住民族の権利回復に取り組む世界潮流とは真逆の変化だ。
像が立つ真歌公園は、かつてシャクシャインがチャシ(軍事拠点)を構えた戦跡だ。88年8月、北海道ウタリ協会(現在は北海道アイヌ協会)は、民族議席確保・自立化基金創設などを盛り込んだ「アイヌ新法」制定を政府や各党に求めるにあたって、この公園で大規模な決起集会を開いた。また2001年夏、現職大臣や代議士が「アイヌ民族は今はまったく同化された」などとヘイト発言を繰り返した時、各地から大勢のアイヌがこの公園に集まって抗議のシュプレヒコールを繰り返した。
歴史家の田端宏・北海道教育大学名誉教授は、北海道史研究協議会編『北海道史事典』(16年、北海道出版企画センター)の「シャクシャインの戦い」の項で、〈自律性を賭しての戦いはアイヌ民族の歴史のなかで非常に重要な意味がある。現代アイヌ民族の人びとの民族意識に強く関わるからである〉と解説している。
アイヌが政府に要求や抗議をする場としてシャクシャインのチャシ跡が選ばれてきたのは、これが理由だ。そこには、いつも旧像が屹立していた。
【「だまし討ち」の歴史、再び?】
ところが9月23日、アイヌ政策を担当する内閣府官僚らを招待して開かれた新像除幕のセレモニーは、明らかに様相が違った。加藤忠・北海道アイヌ協会理事長は「こんにち、以前には考えられないほどアイヌ政策を進めていただいている」と挨拶した。また、新ひだかアイヌ協会の大川勝会長は「(像は)戦いを呼びかけるのではなく平和と共生を祈る姿に変わった。これからはこの像がアイヌ民族の象徴になる」と語った。
政府はほくそ笑むだろう。だがアイヌ政策が進んでいるというのは本当か? 政府は20年開業を目指し国立アイヌ民族博物館建設などを進めてはいるが、土地や自然資源に関わる権利など、「先住民族の権利に関する国連宣言」(07年採択)が列挙する主要な権利の回復には冷淡なままだ。8月には、国連の監視機関から日本政府に新たな改善勧告が届いた。
さて、はじめ優勢だったシャクシャイン軍に対し、江戸幕府は鉄砲隊を投入して鎮圧にかかる。敗色濃厚となったシャクシャインは、松前藩が提示した「償い品を出せば命は助ける」という条件を受け入れ、敵陣内で講和の約束を交わすのだが、同夜の酒宴で酔い潰され、藩の暗殺隊に殺されてしまう。だまし討ちだ。
暗殺日直近の週末だった10月28日、旧像が取り壊され台座のみが残る真歌公園で、最後まで旧像存続を訴えていた顕彰会会員たちがイチャルパ(慰霊の儀式)を執りおこなった。参加者の一人はこう語った。「350年前と同じことが今またアイヌに対して繰り返されているのではないか」。
(平田剛士・フリーランス記者、2018年11月9日号)