30年前の代替わり──天皇報道と記者たち
山口正紀|2019年1月10日6:43PM
30年前、裕仁天皇の死去により日本国憲法下で最初の代替わりがあった。当時の雑誌記事(『法学セミナー』増刊)を筆者の了解を得て掲載。今回の譲位報道記事に必要な視点を探る。
一九八八年九月一九日の重体第一報に始まり、翌年一月七日の死去でピークを迎えた天皇Xデー報道は、量的な過剰性、質的な無批判性、翼賛性によって市民から大きな批判を浴びた。ある場合は、テレビに代表されるような直接の抗議として、ある場合は、レンタルビデオの繁盛が示す無視として、さらには少数だが説得力をもった論文、本の出版を通じて。一連の報道の結果、明らかになったことの一つは、現在のマスメディアが、どれほど市民感覚から乖離し、支配権力の広報に成り下がっているか、であり、庶民の目からはほとんど「こんなものいらない」の対象になったように思われる。
とりわけ、ごく少数の地方紙を除くマスメディアが、天皇の死を「崩御」という反憲法的絶対敬語で表現し、読者に強要したことは、時計の針を一気に四〇数年前に巻き戻し、天皇を「現人神」として復活させたもので、ジャーナリズムとしてのメディアも、天皇とともに死んだ、といわれてもしかたのない行為だった。法的にも倫理的にも、アジア侵略戦争の最大の戦犯であり、名実ともに軍国日本の象徴であった天皇を、「聖断神話」などの歴史の偽造によって「慈悲深い平和主義者」に仕立て上げた一月七日の新聞、テレビ。この報道を見れば、日本のマスメディアは、ことごとく天皇主義右翼に占拠されたかのようであった。
それでは、メディアの記者たちは、すべて天皇主義者だったのか。あるいは大半が右翼だったのか。答えは、明らかに否である。むしろ逆に、大半の記者たちは、天皇に対して尊敬の念を抱くどころか、“迷惑な存在”と受けとめていたように思われる。だとすれば、いったいあの彪大な量の翼賛記事は、だれが書いたのか、と閤われると、やはり記者たち以外にない。メディアの内部をうかがい知ることのできない市民にとっては、なんとも理解しがたいナゾであろう。
「メディアの自殺」ともいえる一連の天皇報道の中で、記者たちは何を考え、どのように行動したのか。本稿では、Xデー前後に出版された天皇報道に関する記者の発言や記録を参考に、記者としての私自身の見聞も含め、この問いへの答えを探ってみたい。