30年前の代替わり──天皇報道と記者たち
山口正紀|2019年1月10日6:43PM
記者たちの意識
私は先に、「記者たちは右翼でも天皇主義者でもなかった」と断定的に書いた。それはなによりも新聞社に所属し、数多くの記者と接している私の実感に基づくが、そのことを客観的に示すものとして、京都新聞労組が昨年一〇月二四日から三一日にかけて行なった「天皇報道についての緊急アンケート」の結果を紹介する。同労組の「新研ニュース」によると、Xデー紙面で「崩御」の語を使うことについては(1)敬語を使うにしても「ご死去」または「ご逝去」で十分=四五・○%(2)天皇神格化につながるので反対すべき=二二・八%(3)出来れば使用しないにこしたことはないが、使わない訳にはいかないだろう=一三・三%(4)天皇報道は例外なので、使用回数を限定するなどの条件を付けるならやむを得ない=八・三%(5)日本の伝統、国民感情を考えれば妥当=三・三%(6)「皇室典範」に準じているので構わない=一・七%──の答えだった。
また、「マスコミの天皇報道は天皇の戦争責任をあいまいにし、覆い隠している」という批判に対する意見としては(1)その通りだと思う=五一・七%(2)そういう面も少しある=二一・八%(3)戦争責任は微妙な問題なので一方的な判断はできない=一四・三%(4)批判は当たらない=二・七%──だった。
このデータを見る限り、記者たちの天皇制に関する意識は、ほぼ現在の市民の意識と変わりはないか、むしろ、より批判的であるようにみえる。
北海道新聞労組のアンケートでも、「崩御」賛成はわずか六%、「崩御」使用の再考を求める意見が八四%、さらに共同通信労組のアンケートでも「崩御」賛成は八・四%、反対は六一・四%だったこと(以上、いずれも三一新書『天皇とマスコミ報道』より)を考えると、京都新聞の記者たちの意識が決して例外ではなく、メディアの記者の平均的な意識を示しているといってもよいだろう。
別の側面からみてみよう。『マスコミ市民』の「特集・『天皇』とマスコミ」は、《その時、報道現場の記者たちは……》と題して多くの記者たちの手記を掲載しているが、その中の「デスクの片隅から聞こえた拍手」(三浦道人)は、〈こんなに解放的な気分になったのは、ついぞなかった――私が、天皇逝去の報を聞いた直後に思った率直な感想だ〉と書くとともに、〈デスクの片隅で、誰かが“拍手”をしているのが聞こえた〉〈他社から聞いた話だが、「天皇逝去」の一報が入った乾門など皇居各門の“張り番記者”たちの間からは、歓声のような声が揚がったという〉と、他の記者たちの反応を記録している。
『創』八九年三月号「“天皇Xデー”マスコミ報道の舞台裏」(小田桐誠)も「拍手が湧いた編集局」についてつぎのように書いている。〈天皇逝去をいち早く速報したのが共同通信。(中略)共同電が逝去時刻を入れて速報したのは、発表より九分早い七時四十六分だった。共同の編集局にいた記者たちは、藤森長官の発表を固唾をのんで聞いていたが、長官が「六時三十三分」というと誰からともなく拍手が湧き上がったという〉
これらの文章から伝わってくるのは、天皇の死を「解放感」、あるいは「歓声」「拍手」で迎えた記者たちの生身の姿である。少なくとも、一月七日タ刊の〈われわれはいま、深い悲しみと無量の感慨をもって天皇陛下の崩御を悼み、「昭和」の去りゆくのを見送る〉(朝日社説)、〈長く苦しいご闘病の中で、なお私たち国民に心をかけられた陛下。私たちは今、深い悲しみの中で、陛下とその転変の時代を思いつつ、新たな前進をお誓いしたい〉(読売社説)などの記事は、こうした記者たちの率直な反応を覆い隠した“作文”にすぎないことは疑いえない。
私自身、その日、編集局で感じとったのは、妙に晴ればれとした空気だった。それは、「やっと死んでくれたか」という解放感と、号外、タ刊、朝刊と続いていくような“大事件”に共通する独特の騒然とした活気がないまぜになったものだった。「深い悲しみ」は、活字の中にしかなかったと断言してもよいと思う。さらにつけ加えるならば、私の知る多くの記者たちは、デスククラスも含めて、日ごろ、天皇を「天ちゃん」、皇太子を「チビ天」、浩宮を「マゴ天」と呼んでいたのである。