30年前の代替わり──天皇報道と記者たち
山口正紀|2019年1月10日6:43PM
決まっていた基本姿勢
記者の天皇に対する意識がこのようなものであったにもかかわらず、実際の紙面、放送が、そこから大きくかけ離れたものになった第一の理由は、天皇死去の際のXデー紙面が、あらかじめメディアの少数の幹部の方針によって予定稿として作られていたこと、重体以降の一連の「自粛報道」や「過剰容体報道」は、その予定稿の基本線に沿って展開されたこと、そしてそれらの報道に記者たちは問答無用の形で動員されていったことである。
新聞社のXデー予定稿は各社とも遅くとも一〇年以上前から準備されていたと思われる。私の所属する社の場合は、一九七一年に社会部と整理部に数人の担当者が置かれ、毎年一、二回、編集局幹部と基本方針を打ち合わせながら、用語や紙面製作の原則などを確認していた。その中で、たとえば用語の選定も「ご死去」「ご逝去」「崩御」と「社会の変化を鏡として」というあいまいな判断基準で修正されていったという。これはどの社も同じようで、たとえば前掲『マスコミ市民』特集号の「“その時”の編集局と紙面作り」(石井晴朗)は「崩御」使用について〈十年ほど前、Xデー準備に着手したころは「ご逝去」でほぽ固まる空気だったと聞く。この十年の右傾化状況が、この言葉に反映していることは間違いないところだろう〉と記している。
このようにして準備されていたXデー予定稿の基本的なトーンは、「崩御」使用を前提に(1)天皇への深い哀悼(2)天皇の人柄の賛美(3)「激動の昭和」回顧とその中での天皇の苦労の紹介(立憲君主として不可能だった開戦防止と、その制約を超えて決断した終戦の“御聖断”など)(4)戦後の平和と緊栄への象徴としての貢献(5)新天皇への期待とそのもとでの国民統含――で各紙ともほぽ共通していた。さらに、死去から新天皇即位、葬儀に至る諸儀式の用語、扱いについては、大正天皇死去当時の紙面が参考にされたという(ここにも憲法の主権在民が忘れ去られる要因があった)。また、こうした全国版の記事を受ける形で各地方版ごとにも二頁分もの予定稿と紙面が作られ、各県ごとに「天皇ゆかりの人の思い出」を中心とした追悼一色の紙面が準備されていた。
問題は、これらの予定稿が編集幹部と少数の担当者の“密室の作業”として作られていたことだ。先に紹介した京都新聞労組のアンケートでは、「病状報道やXデーの紙面製作の過程で、報道のあり方について十分な議論が職場でなされたと思いますか」との問いに対し、(1)ほとんどなかった=六五・三%(2)少し話しあった=二一・八%(3)わからない・その他=一二・九%(4)議論を十分尽くした=〇%の答えが返っている。だれ一人として、Xデー紙面が議論を尽くしたものとは考えていない。また前掲『創』三月号同論文は、ある全国紙若手記者の話として〈インターハイとか大きな裁判が結審するときの予定稿は労組にも手に入るのに、天皇報道に限っては誰でも見れるはずの予定稿が容易に見れないのはどう考えてもおかしい〉と書いている。これはテレビも同じで、『マスコミ市民』特集の「流されていった“総力取材”」(北智揮)は〈何年もかけて、一般の報道局員には見えないかたちて作りあげられていった二日分の構成は全体として変えようがなく、手直しは小幅にとどまった。私も含め、多くの報道局員は番組構成に不満をもっていたが、全体としての強い意思表示という形はとれないまま、流されていった〉と述べている。
Xデー予定稿の“本体”にタッチできないまま、編集幹部から予定稿のトーンに沿って出される取材・紙面作りの指示に基づいて機械の歯車の一つとして動かされる記者。しかも、そのすべての記事は無条件に絶対的な敬語を使って書くことを余儀なくされているとすれば、報道の全体が一色に染まっていくのは当然の帰結だったといえよう。