30年前の代替わり──天皇報道と記者たち
山口正紀|2019年1月10日6:43PM
記者総動員体制の論理
九月一九日以降、マスメディア各社は、編集部門から制作部門まで含め、二四時間の総動員体制を敷いて、“その時”を待った。
一〇月四日付新聞協会報によると、〈陛下の熱が三十九度を超え、ご容体が心配された二四日(九月)、宮内庁で取材活動に当たった報道関係者は、延べ千二百六十人にのぼった。(中略)宮内庁幹部や皇族が出入りする皇居の各門には、二十四時間態勢で記者約二百五十人が単の往来をチェック〉したという。
JICC出版局『天皇の門番……皇居周辺に張りついた新聞記者69人の111日』(読売新聞『張り番の会』編)によると、読売で張り番に投入された記者の総数は八八人、カメラマンが五七人。また民放連の機関誌『民間放送』(一〇月三日付)によると、九月二四、五の二日間、テレビ各社が報道、中継に動員したスタッフは、TBS四五〇人、日本テレビ五〇〇人、テレビ朝日五〇〇人、フジテレビ四〇〇人、テレビ東京一八〇人にのぼった。
総動員体制は、社内の編集・整理部門も同様で、通常の紙面編集が終わった後、Xデー要員で社内に残るというダブルローテーションを組んだ社が多い。そうした超ハード勤務の中で、九月二九日、中日新聞名古屋本社整理部次長が急死する悲劇が起きた。
一人の人間の重体、死亡報道としてはもちろん、あらゆる事件、事故の報道を通じて、これほど大がかりな取材体制がとられたのは空前でおそらく絶後と思われるが、なぜこうした総動員体制が必要だったのか、という点については、当然のようでいて実は大きな疑問が残されている。それはニュース報道の根幹にあるニュース価値判断にもかかわる問題である。
天皇の死はたしかに最大級のニュースであろう。しかし、それはいかなる意味においてニュースたり得るのか、ジャーナリズムはその点をあいまいにしてはならないはずだ。
もしこれが明治憲法下の天皇の死ならば、その絶対的な統制下にあった報道機関が「万世一系の現人神、国政の総攬者にして軍の統帥者」の死が、ただちに国政、外交、軍事全般から国民に与える大きな影讐を考え、無条件に最大ニュースとして報ずるのは、その是非はともかく理解できることである。実際、大正大皇の死は、そのように報道された。
だが、主権在民の現憲法下においては、日米支配層が“統治の道具”として残した「国民統合の象徴」という憲法の規定を認めたとしても、天皇の死それ自体にそれほどの大きなニュース価値があるとは思えない。ましてや重体段階からマスメディアが記者を総動員するほどの“大事件”ではない。
裕仁天皇の死が人ニュースであるのは、彼が“象徴”なのだからではなく、まず第一に彼がアジア人二〇〇〇万人以上の生命を奪った侵略戦争の最大の責任者であり、ヒトラー、ムッソリーニと並ぶ第二次大戦の世界三大戦犯の唯一人の生き残りだったからである。天皇の軍隊に踏みにじられたアジアの人びとにとってヒロヒトの名は、けっして忘れることのできない惨禍の象徴であった。第二には、この戦争で死んでいった二〇〇万人以上の日本人、加害者でもあり被害者でもあった日本の民衆、とりわけ、沖縄、広島、長崎の人びとにとって、裕仁天皇の死は、やはり特別な意味をもつものであったこと。第三には、その天皇がアジア人に対して戦争責任をとらず、沖縄、広島、長崎に対しても「やむをえなかったこと」として戦後を生き延びたこと、そして第四には戦後日本が、こうした無責任な人間を“象徴”として受け入れ、侵略、差別、抑圧の構造を温存させながら現在の“繁栄”を築いてきたこと。つまり天皇の死は、私たち日本人が、その過去と現在をトータルに問い直す機会として大きなニュース価値をもっていたのである。
しかし、すでにみたように天皇を「慈悲深い平和主義者」に描き上げるという基本姿勢で予定稿を作っていたマスメディアは、最大のニュース価値である戦争責任を不問に付した。そして、戦争の問題を「激動の昭和」というあいまいな時代規定の中に封じ込め、天皇の死を「一つの時代の終わり」「昭和から平成への転換」という非科学的な位置づけでニュースとして価値づけ、記者たちもその空疎な論理で動員するしかなかった。
〈「歴史的な瞬間を取材できるなんて、記者冥利に尽きる」というのが幹部が記者に激励する合言葉であり、寝食を忘れ、休み返上で張り番する若い記者も歴史の瞬間に立ち会えると、まったくの錯覚に陥って走り回った。悲しい記者のサガである。天皇が死んで、何で昭和が変わるのか。歴史は昭和を生きている国民一人ひとりが形成するのであり、天皇の死によって世の中が変わるのではない〉。『マスコミ市民』特集号「天皇病患者としての新聞」で山田喜作氏はこう書いている。
しかし、「歴史的な瞬間の取材」という幹部たちの合言葉は、あまりにも皮相なものであり、とても彼らの本音だったとは思いにくい。あの悲喜劇的な張り番や二四時間体制を記者たちに要求したマスメディア幹部の本音は、多分、別のところにあったように思われる。それは、天皇の死の瞬間をどれだけ間髪をおかずにキャッチし、ただちに号外を出すとともに他社に負けない量の原稿、映像を流せるか、である。そのためにこそ、大量の記者を皇居各門などに張り付けて二四時間、病状変化の参考になる人びとの出入りをチェックさせたのであり、社内でも整理記者を常時待機させたのである。
重体初期の連日の洪水的報道に読者から批判が集中したことについて、毎日の岩見隆夫編集局次長は一〇月一一日朝刊「記者の目」欄で〈天皇ご重体の緊急事態は国民の大関心事である。新聞社内にも「過剰気味だ」という疑問の声がないわけではないが、通常ニュースに比べ多少異常に映っても、歴史の証言者として、時代の重要な時点を克明、客観的に記録するのは新聞の当然の役割ではないか〉と反論した。だが、天気予報並みの病状報道や、だれが記帳にいったかの“克明な記録”は、とても歴史の証言の名に価するものではなかった。それは「今にも死ぬかもしれない」と思っていたメディア自身の関心事をそのまま流し、結果的に自粛ムードを煽ったにすぎない。各社が一様にこうした報道になだれ込んでいったのは、各社が共通してXデー本番に、いかに早く大量の情報を流せるかに最大のポイントを置いていたことを示すと同時に、プレXデー段階においても「報道量が他社より少なくなっては……」との疑心暗鬼にせかされた結果、というのが実情であろう。
こうして迎えた“その日”が、〈Xデーを通過してみての感想をひとことでいえば「一日で終わっちゃった」である。十年余も準備してきたわりには、じつにあっけなかった〉(前掲、石井晴朗)、〈慌ただしい取り組みだったが、それが二日間、実質的にはXデーのその一日だけで終わってしまった奇妙な不思議を感じた。昨年九月の天皇危篤以降の報道ぶりと社会の萎縮状況から推測して、Xデーとその後はちょっととてつもない事態になるのではあるまいかと身構えたものだったが、何ともあっけなく終わってしまったというのが実感である〉(前掲『マスコミ市民』特集「揺れたのはマスコミ」=我謝南夫)ということになった理由は、もう明らかだろう。
天皇の死のキャッチで、記者たちの仕事の大半はすでに終わっていたのであり、あとは既定の路線に沿って大量に準備してあった予定稿を多少手直しして紙面・映像化するだけだった。天皇死去が本来的にもつニュース価値からすれば、アジアを中心とした世界の人びと、そして沖縄、広島、長崎が、「最後の戦犯の死」をどう受けとめたか、また多くの日本人たちが何を思い、どう行動するか、政府や警察の動きをどう批判的に伝えていくか、などの取材が記者たちを待ち受けていたはずだが、それらは、メディアの基本路線からは、すでにメーンの取材活動ではなくなっていた。〈どれだけ熱心に天皇を讃美したか、どれほど多く時間や紙面を割いたか、どれほど天皇をよく知る人物を集め得たか、これらをマスコミ同士が競い合うことで、天皇への近接意識、つまりは報道の正当性を競ったのではないか。その過程で、弱者に対して錦の御旗として掲げられる「報道の自由」は吹き飛んでいた〉(『マスコミ市民』特集「無力感に打ちのめされ」=四方末男)のである。