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「慰安婦」被害者の金福童さん逝去
「希望はつかみとるもの」
梁澄子|2019年2月22日11:22AM
「人権運動家・金福童さん逝去」という報が流れたのは1月28日の夜だった。「日本軍『慰安婦』被害者」ではなく「人権運動家」を冠したところに、彼女と共に歩み最期まで彼女を見守った人々の思いが滲む。
晩年の金福童さんは、戦時性暴力被害者を支援する「ナビ(蝶)基金」の創始者、時と場に合った的確な発言で人々に気付きを与える活動家、「金福童奨学金」や「金福童平和賞」に全財産を捧げた慈母のような存在だった。1992年に日本軍「慰安婦」被害者として名乗り出た当時の様子から大きく変化した金さんの姿は、まさに「変化」をキーワードとする日本軍「慰安婦」問題解決運動の30年を象徴していたと言えよう。
しかし、彼女が本格的に活動を展開し人々を動かす影響力を発揮するようになるのは、実はここ10年ほどのことだ。初期にも93年のウィーン世界人権会議で証言する等の活動はあったが、とりわけ海外に出ることには消極的だった。
98年、私が在日の「慰安婦」サバイバー宋神道さんと共に訪韓し「ナヌムの家」を訪ねた時、他の入居者たちが宋さんを囲んで賑やかに談笑し歌い踊ったのに対し、金さんは黙って食事だけ終えると自分の部屋に引きこもってしまった。気になって職員に尋ねると、「あの方はうるさいのが嫌いで、いつもああなんです」という答えが返ってきた。
その後、7年過ごしたナヌムの家を出て、再び釜山での独り暮らしを始めた。「日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連帯」の尹美香代表は、釜山で独り暮らしをしていた頃の金さんが「楽しいことは一つもない、酒とタバコ以外は」と言い、訪ねていくといつも下着姿で、台所には食事をした形跡がなく焼酎の瓶だけが転がっていたと述懐する。
【最後のメッセージ】
そんな金さんが変わり始めるのは2008年、韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協・前出「正義記憶連帯」の前身)の施設「ウリチプ」に入居してからのことだ。酒を断ち、ほとんど見えなくなっていた目の治療を受け、毎週水曜デモに出て人々と接し始めた。人々に接することで金さんが持っていたパワーが全開し始めたのだ。
12年、日本の右翼が日本大使館前の「平和の碑」(少女像)等に「竹島は日本の領土」と書いた杭を置いていくと、激昂する市民たちに向かって「こんな棒きれ相手にすることない。却って博物館や平和の碑が有名になって彼らに礼を言いたいくらいだ」と余裕を見せ、15年の日韓合意後は「歴史を売った」と韓国政府を厳しく批判した。そして来日を要請する声には「韓国政府と闘うだけで精一杯だ。日本は日本の市民で考えてやれ」と檄を飛ばした。
17年頃から癌の転移が進むにつれ、金福童さんが絶えず気に掛けたのは、来日の折に何度か訪問した朝鮮学校の生徒たちのことだった。「あの子たちのことを思うと、ただ涙が出てくる」
高校無償化から排除された生徒たちに奨学金を出し、台風被害に遭った朝鮮学校への支援金を手に、18年9月、最後の来日を果たした。そして「どんなに差別されても堂々としていなければならない」と子どもたちに語りかけた。
同年11月、金福童さんの意志を受け継ぎ朝鮮学校を支援するための基金「金福童の希望」が立ち上げられると、残った全財産をこれに託した金さんは「希望をつかみとって生きよう。私は希望をつかみとって生きている。私のようにやってごらん」と言った。私が聞いた最後の肉声だった。
「女性人権運動家・金福童さん市民葬」は5日間続き、文在寅大統領ら6000人が弔問した。市民葬を締めくくる2月1日には金さんの棺を先頭に、約1000人が黄色の蝶や弔旗を手にして、ソウル広場から日本大使館まで粛々と行進した。被害者から人権運動家へ。変貌したその姿で人間の尊厳を示してくれた金福童さん。希望はつかみとるものだという彼女の最後の言葉を、私は忘れない。
(梁澄子・日本軍「慰安婦」問題解決全国行動共同代表、2019年2月8日号を一部修正)