稀勢の里の引退で
小室等|2019年3月10日2:40PM
稀勢の里の引退時の、メディアから流れてくる言葉に違和感。
「多くの人が日本人横綱の引退はさびしいと言っている」
「稀勢の里は久々の日本人横綱だったのに」
「稀勢の里が引退したら、当分日本人横綱は出てこないだろう」
「モンゴル勢に一人で立ち向かった稀勢の里」
以前の話だが、白鵬が六三連勝中、「その連勝を日本人力士が止める。その期待が稀勢の里に託されている」等々。
角界のどんな理由が外国人力士を誕生させて今に至ったか、仔細を僕は知らないが、日本相撲協会理事長は、江戸時代からの伝統を今日に守り残していくのが自分の使命、というようなことを言いはじめている。守り残すことのできない外国人力士は排除する、とは言ってないが、気味の悪い発言だ。
まさか外国人力士に対する牽制でもないだろうが、自分らの都合で導入しておいて、目立ってきたら潰す? じゃないよね。
自分たちの都合で植民地化し、日本名も押し付け、戦争に負けて都合が悪くなると知らん顔って前例があるから油断できない。徴用工や「慰安婦」問題でも、日本の対応は、なんか居丈高で情がない。
戦後賠償問題は日韓合意の下に解決済みとする日本は、「いつまでも文句言ってんじゃあねえよ」とばかりの上から目線。韓国のレーダー照射問題なんかでも、日本の対応はなんか高飛車で、たしかに謙虚さがない。
一九五三年ごろ、東京・荒川区尾久町(当時)で電気工事屋だった僕の父は道楽で、町内の有志数人と芝居小屋の屋主に名を連ねていた。そのときの経理士の家族、とくにその妻である小母さんは僕をかわいがってくれた。
小母さんには姉妹の子どもがいて、僕より年下の、とくに姉の○子ちゃんとはよく遊んだ。そうこうしているうちに、見合い結婚だったらしい小母さんの夫である経理士が韓国人だと、大人たちの話を通して僕の耳にも入ってきた。
だからと言って、○子ちゃんへの僕の見方が変わるわけでもなく、相変わらず○子ちゃんは○子ちゃん。韓国人の○子ちゃんでも、日本人の○子ちゃんでもなく、僕の前にいる○子ちゃんは、ただ○子ちゃんであって、今に至ってもそれは変わらない。
国とか所属とかの前に、ただの人間同士として出会えればと思うのに、人は所属があった方が安心なんだよね。所属の見返りはたくさんの不自由なのに、人というものは、ただの人であることで得られる自由より、所属の不自由を選んでしまうんだね。
(こむろ ひとし・シンガーソングライター、2019年1月25日号)