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ねじれた国
雨宮処凛|2019年5月1日7:00AM
これらの流れを見ると、この数年で急激に「命の選別」が進んでいるように思えるが、時間をもう少し遡ってみよう。
例えば麻生太郎大臣は08年に「たらたら飲んで、食べて、何もしない人の金(医療費)をなんで私が払うんだ」と発言。また1999年、東京都知事になったばかりの石原慎太郎氏は障碍者施設を訪れ、言った。
「ああいう人ってのは人格があるのかね」「ああいう問題って安楽死なんかにつながるんじゃないかという気がする」
命を値踏みする発言は、このように、かなり前から一部政治家によってなされてきた。しかし、この2人に限っては何を言おうとも「麻生節」「石原節」と不問にされてきた。が、スルーしてきたメディアは今こそ猛省すべきだと思うのだ。なぜなら、言葉には恐ろしいほどの力があるからだ。
それは時に、何十年もかけて世の中の空気をがらりと変えてしまうことさえある。しかも2人の場合、「建前ではなく本音を言っている」と受け止められてしまうからやっかいだ。その背景には、「命は大切」ということがこの20年で「綺麗事」「建前」になってしまった現実がある。
格差と貧困が広がれば広がるほど人を大切にしなくなった社会の中で、2人の言うことは「真実」になってしまったのだ。だからこそ、平和や人権、命の大切さを言う人々が「建前しか言わない」「現実を知らない」とされ、滑稽にさえ見えるという転倒が起きている。
私たちは、とてつもなくねじれた国に住んでいる。どうしたら「綺麗事」を「当たり前のこと」として取り戻せるか、今まさに、問われている。
(あまみや かりん・『週刊金曜日』編集委員。2019年3月22日号)