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『主戦場』を観て考えた
雨宮処凛|2019年5月28日7:38PM
映画では、「慰安婦」について「性奴隷ではない」と主張する人たちが「否定論者」と呼ばれる。観ながら戦慄するのは、否定論者たちの「雑」さだ。「日本人は、嘘をついちゃいけないと教えられる。だけど韓国人は違う」というような根拠のない決めつけ。「フェミニスト」は「ブサイク」で、「誰にも相手にされないような女性」と断言してしまう感覚。「慰安婦」の証言を信じられないと言っているのに、証言ですらない「伝聞」を堂々と国会質問に使って悪びれない神経。そうして登場した「ラスボス」は、「慰安婦」問題について正しい歴史を伝える歴史家だと自称しつつも、「人の書いたものは読まないので」とやはりちっとも悪びれずに答える。「慰安婦」の研究者たちが書いたものを読まない歴史家は、韓国を「育ちの悪い子ども」にたとえて「かわいらしい」と笑う。
笑うということが、これほどの「侮辱」になるのだということも、『主戦場』を観て気づいたことだ。対して「慰安婦」の研究者や学者たちは、慎重に、言葉を選びながら話す。よって笑う余裕はほとんどない。しかし保守派はよく笑う。笑いながら、時に耳を覆いたくなるようなことを口にする。
この10年以上、格差や貧困が深刻化するこの国の現状について、「底が抜けたような」という表現を使ってきた。しかし、これほどに歴史が歪められ、多くの人を貶めるような言説が一定数の支持を受け、しかもそれが政権と連動しているというこの状況は一体なんだろう。もはや「底が抜ける」どころでは済まされない事態だ。
『主戦場』を観て勇気付けられたものの、ではこの状況をこれからどうしていけばいいのか、それを本気で考えると暗澹たる気持ちも襲ってきたのだった。
(あまみや かりん・『週刊金曜日』編集委員。2019年5月17日号)