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芥川賞作家・大城立裕氏が逝去
沖縄「知の巨人」の生涯
米倉外昭|2020年11月19日5:14PM
【「沖縄文学」の牽引者として】
大城氏が晩年に注目されたのは日本政府の名護市辺野古への新基地建設強行に反対する立場を明確にしたからだ。15年5月17日開催の県民大会の共同代表の1人に名前を連ねた。その後、基地問題を直視した小説も発表した。
常に「沖縄初の芥川賞作家」という枕詞が付いた。権威主義的で俗っぽく聞こえるが、本人は嫌がっていなかった。「文学不毛の地」と言われていた状況を打開して沖縄の人々に自信を与えたことに加え、日本と沖縄を『同化と異化のはざまで』(1972年刊行のエッセー集)探求し続ける自身を歴史に位置付けるフレーズとして自任していたからだろう。
琉球新報社主催の琉球新報短編小説賞の選考委員を長く務め、そこから又吉栄喜氏、目取真俊氏と2人の芥川賞作家が生まれた。後輩たちに積極的に助言したが、家父長的な面もあり反発もあった。
ウチナーグチを駆使して作品が書けるのは自分だけという自負もあった。沖縄芝居や組踊も含む膨大な「大城立裕山脈」は、文学研究の対象としても大きい。
記者として大城氏との関わりは長い。穏やかな口調ながら強い自負と信念を漂わせた雰囲気は終生変わらなかった。一番最初は新人記者だった1987年12月に琉球新報短編小説賞の選考会に同席したことだ。日野啓三氏、霜田正次氏との激論を目の当たりにした。
2001年には連載「沖縄 名作の舞台」で『カクテル・パーティー』を取り上げ取材した。芥川賞受賞が、復帰運動が盛んになっていた状況と「無関係ではないでしょうね」と述べている。
17年には芥川賞受賞50年に合わせて鼎談を企画した。その準備で受賞前後の新聞記事に目を通して印象に残ったことがある。当時すでに自身満々に自らの受賞を分析していた。沖縄文学を牽引するという自負心の強さがあった。
晩年、本人が遺言として述べたことは沖縄語の標準語の確立であった。「沖縄の自画像の探求、文化的独立」という、大城氏が掲げたテーマは、後に続く世代の宿題であり続ける。
(米倉外昭・『琉球新報』記者、2020年11月6日号)