韓国人元BC級戦犯・李鶴来さん逝去
「日本の不条理」と闘った生涯
本田雅和|2021年4月26日2:46PM
日本の植民地支配下にあった朝鮮で生まれ、日本軍軍属として連合軍捕虜監視員などをさせられたことで戦後は「捕虜虐待」の罪などに問われた朝鮮人「戦犯」者は148人。うち23人は刑死した。死刑宣告を受けながら減刑で生還した李鶴来さんは「理由も分からずに死んでいった仲間の無念を晴らす」と誓い、日本政府に名誉回復のための「謝罪と補償」を求め続けてきたが、道半ばにして3月28日、外傷性くも膜下出血で帰らぬ人となった。96歳だった。
李さんらは出獄後も祖国では「対日協力者」として白眼視され、戦後の日本で肩寄せ合って生きてきた。朝鮮人の戦犯当事者としては李さんが「最後の生き証人」。植民地支配の被害者が連合国からは「戦犯」とされて「日本人としての罪」を負い、1952年のサンフランシスコ平和条約発効後は一方的に「外国人」にされて日本政府の援護対象から外された。「自分たちの生と死は、いったい誰のため何のためだったのか」。激しく自問し続けてきた人生だった。
「日本が道義の国ならば、どうして私たちの問題だけ放置しておくのですか」。そんな李さんの話を90年代初頭から直接聞く機会に筆者は恵まれてきた。李さんとともに活動してきた内海愛子・恵泉女学園大学名誉教授が代表の「日本の戦争責任を肩代わりさせられた韓国・朝鮮人BC級戦犯を支える会」の勉強会に参加する中でのこと。穏やかで静かに話す人だった。
李さんらが闘った戦後補償裁判は99年に最高裁で敗訴が確定。それでも「日本政府の不条理」に対する怒りと悔しさを、声を荒げることなく淡々と説き続けた。
判決は同時に「立法による解決」を付言で強く勧告。支援団体も立法運動に軸足を移した。4月1日、衆議院議員会館で予定されていた「外国籍BC級戦犯者」の救済立法を求める集会には、李さんもZOOM参加を準備していたが、事実上の李さん追悼集会となった。