韓国人元BC級戦犯・李鶴来さん逝去
「日本の不条理」と闘った生涯
本田雅和|2021年4月26日2:46PM
【自らの加害と向き合う】
内海さんは遺影を前に「李さんの人生そのものが日本の不条理との闘いだった」と紹介。超党派の日韓議員連盟の河村建夫幹事長(自民党)は、戦犯当事者と遺族に対し1人当たりわずか260万円の特別給付金を支給する法案をまとめているのに提出さえできていないことを詫び、「このままでは済まされない。ご逝去を無にしない」と話した。1日、多磨霊園での通夜終了後、妻の姜福順さんは筆者ら報道関係者に「(立法は道半ばでも)皆さんのおかげで本人の思いを日本の人々に届けられた。最後の最後に逝ったので、向こうで待っている仲間にそう伝えられる」と泣いて礼を述べた。
韓国全羅南道の貧しい農村で「天皇のために死ね」という皇民化教育を受けて育った李さんは17歳の時、面長(村長)から朝鮮総督府による捕虜監視員の募集に応募するよう命じられた。事実上の「徴用」だった。朝鮮全土から集められた青年らが学んだのは捕虜の保護を定めた国際法のジュネーブ条約などでは毛頭なく、「生きて虜囚の辱めを受けず」との戦陣訓や逆らう者にはビンタで報いる初年兵教育だった。その後、医薬品も食糧も決定的に不足するタイ・ビルマ国境地帯の泰緬鉄道建設現場に派遣され、捕虜収容所の監視員として日々、何人の作業員を出すかで捕虜代表の軍医らと時には対立。捕虜を殴ったこともある。
シンガポールでのオーストラリア軍事裁判では、たった2回の公判で死刑判決。死刑囚房で何人かの仲間を見送る恐怖の8カ月後、突然懲役20年に減刑された。51年に東京のスガモ・プリズンに移され、日本が主権を回復した52年以降も収監が続いた。日々の作業のあとスガモから学校に通うことが許されると奪われた青春を取り戻すかのように社会科学を勉強し、自らの加害者性とも向き合った。
「私がそれ(戦争)に参加してさへいなければこの逆境に陥ることはなかった……戦争こそはあらゆる害悪の根源なのである」とスガモでの手記に記している。自らを戦争に加担させた天皇制ファシズムを憎み、平和思想に徹する後ろ姿を私たちに示した晩年だった。
(本田雅和・編集部、2021年4月9日号)