参院選とメディアの傍観者的報道
内田樹
内田樹|2022年7月8日8:24PM
参院選が近づいているが、大手メディアは「争点なき選挙」「盛り上がりを欠く」といった定型的な報道を続けている。
このメディアの傍観者的態度に私はつよい違和感を覚える。一人でも多くの有権者が選挙に参加することは民主主義の根幹である。棄権率が50%を超えるような状況は端的に「民主主義の危機」である。
しかし、メディアからはその危機感が伝わらない。とりわけテレビメディアの選挙への関心の低さは異常なレベルに達している。選挙のことはほとんどニュースにならない。選挙に臨んで「公正中立」を保つためには「できるだけ報道しない」というのは確かに一策ではある。だが、そのせいで有権者がこの選挙の争点が何であるかを知らず、この選挙の歴史的意味を理解せず、その結果が彼ら自身の現実にどのような具体的変化をもたらすことになるのかを想像することをしないまま投票日を迎え、かつ半数が棄権することになるのだとしたら、この投票率の低さの責任の半分は選挙についての踏み込んだ報道を怠ったメディアにあると私は思う。
言葉が厳しくなるが、今の日本の新聞やテレビなど大手メディアは民主主義の機能不全に加担しており、その主要なアクターにさえなっていると私は思う。
有権者が棄権する理由はいくつかある。「自分一人が投票してもしなくても、政治は何も変わらないだろう」という無力感がたぶんその第一の理由である。
このような無力感のうちに落ち込んでいる有権者の袖を掴んで、「そんなことはない。あなたの一票で政治は変わる」と掻き口説くこともメディアの大切な仕事である。私はそう思う。
だが、テレビはただ「今度の選挙も半数が棄権するでしょう」とあたかも「明日の天気は雨でしょう」と予測するように報道するだけである。ニュースキャスターが申し訳程度に「まことに憂慮すべきことですが」と付け加えて、眉根に皺を寄せてみせるくらいで、次の瞬間には「では、スポーツです」と笑顔に戻る。
彼らにも「報道すべきことは報道している」という言い分はあるだろう。棄権率が50%を超えそうで、民主主義が危機に瀕しているというのは厳然たる事実であり、その「憂うべき現実」を我々は中立的に、「何も引かず、何も足さず」報道している、と。それで何が不満なのだと口を尖らせるかもしれない。
だが、自由な言論は民主主義が機能している社会においてしか生存することができない。そのことは彼らだって熟知しているはずである。自身の職業の存否がかかっている事態について「このままでは民主主義が機能しなくなるかもしれません。では、次はスポーツです」などと言えるものだろうか。
「むしゃくしゃしたので誰でもいいから殺してやろうと思う」と言いふらしている人がいたとする。そのように深く心を病んだ人を生み出した社会の闇を前景化させるために「こんなことを言う人がいます」と報道することにはもちろん意味はある。だが、報道するより先に、まずはその人が凶行に及ばないように具体的な手立てを探すのが、話を聴いた人間の最優先の仕事ではないのか。
今の日本のメディアにはこの「当事者意識」が感じられない。読者や視聴者に向かって、「お願いだから選挙に関心を抱いてほしい。歴史的な岐路なのだから、争点についてぜひ熟考してほしい。何があっても投票所に足を運んで、一人の候補者に期待を託してほしい」と懇請するという態度が見られない。有権者の関心を掻き立て、民主主義を活性化させることをおのれの責務と感じない報道はもはや「ジャーナリズム」の名に値しない。
(内田樹・思想家、週刊金曜日オンライン限定記事)