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元『朝日新聞』編集委員の早野透さんが急死
山田厚史・ジャーナリスト(デモクラシータイムス同人)|2022年11月28日7:00AM
早野透の死は突然だった。風呂上がり、普段通りマッサージチェアにもたれかかった。うたた寝と思った妻がタオルをかけ、1時間後に戻ると意識がなかった。急性心不全。晩秋11月5日夜、穏やかな表情のまま77歳で旅立った。
予感があったのか、最近はしきりと耳鳴りを訴え「もう長くないよ」と口癖のように言っていた。「あの世の角栄さま 胸が痛い 近く参ります」。乱れた走り書きが、手元に置いた自著『田中角栄』(中公新書)の余白にあった。
角栄評伝の決定版とされる同書は、焼け跡から立ち直った日本の戦後史を角栄を通じて描いた力作だ。初版は2012年。7刷になったが、その一冊にはページのあちこちに棒線や直しがぎっしり書き込まれ、角栄をなお深く正確に伝えたいとの思いが滲んでいた。
13日の告別式で弔辞を読んだ佐高信は「戦後民主主義の上半身は丸山眞男が担い、下半身は田中角栄だった、と貴方は喝破した」と述べた。早野は東京大学法学部丸山ゼミで政治思想を学び、1968年に朝日新聞社に入社。岐阜支局を振り出しに27歳で政治部に配属され、首相番記者として55歳の角栄と出会う。7カ月後に金脈問題が噴き出し、追い打ちを掛けるようにロッキード事件が起こる。刑事被告人ながら与党最大派閥を率いる「闇将軍」を追うことが政治記者の始まりだった。
角栄が選挙区の新潟に戻るたびに特急「とき」に同乗し、近くの席に座った。歯牙にもかけられぬ新米記者は視界に入る努力を重ねた。やがて目白の自宅に上がることが許され、密着取材が始まる。
「この朝、角栄はカレイの煮付け、昆布巻き、梅干、マタタビに大根と油揚げの味噌汁、ご飯一杯を食べた」。1977年1月27日、ロッキード裁判開始の日の記述だ。
懐に飛び込むが媚びない。不愉快なことも字にする。愚直さが認められ、少しずつ信頼を得ていった。金権と利益誘導を生んだ政治風土を草の根から探ろうと1年半、新潟支局で勤務した。
死の前日まで番組収録も
大手新聞社では記者は40歳前後でデスク(次長)になり管理職へと進むことが少なくない。中曽根派を担当した同期の秋山耿太郎が政治部長になった。早野はラジオテレビ本部副本部長へ出された。出世競争には敗れたが編集委員として93年、現場に復帰。政治記者として頭角を現すのはこの頃からだ。同年12月に角栄は75歳で死去。田中派はすでに分裂、自民党は内部抗争の末、政権から転げ落ち、細川護煕内閣が誕生していた。
最初の著作『田中角栄と「戦後」の精神』(朝日文庫)は95年。早野は50歳になっていた。私(山田)はその頃、編集委員室で彼と一緒に仕事をするようになった。当時、CS「朝日ニュースター」で電力業界などをスポンサーに自民党の与謝野馨を売り出す番組が企画された。だが露骨な宣伝番組は誰も見ない。緊張感ある討論をと与謝野が指名したのが早野と私だった。政策を議論する番組「説明責任」は97年から、与謝野の落選中も含め10年近く続いた。テーマを選ぶ裏方役は経産官僚の嶋田隆。彼は後に事務次官となり、今は岸田文雄首相の政務秘書官だ。
2007年、私は首相だった安倍晋三(正確にはその秘書3人)に名誉毀損で訴えられた。テレビ朝日の番組での発言をめぐり3300万円の損害賠償を請求された。「スラップ訴訟」の類だが、管理責任を問われた『朝日新聞』は私を守らなかった。早野は秋山社長(当時)に直談判し「仲間である山田を応援する」と通告して支援組織の中核となった。
私たちは朝日新聞社を退職し、13年3月、時事問題を報じるインターネット局を立ち上げた。紙媒体に逆風が吹く中、自由な言論の場を確保することが必要と考えたからだ。早野は自宅隣の貸間をスタジオとして提供してくれた。亡くなる前日も「軍拡増税の作り方」という番組の収録に立ち会った。
「新聞に精彩がない。読み応えがなくなったな」。そう嘆いた言葉が耳に残っている。(文中敬称略)
(『週刊金曜日』2022年11月25日号)