うけを狙う政治家たち
2022年12月16日7:00AM
江戸時代に使われた言葉に「うけを取る」というのがある。芝居で見物人の喝采を博して評判をとることである。「見物のうけをとって、よいよよいよ、の声さえかかれば」役者としてやっていけた。
葉梨康弘法務大臣は11月11日に更迭された。その原因となった発言は以下だ。
「だいたい法務大臣というのは、朝、死刑のはんこを押して、昼のニュースのトップになるのはそういう時だけという地味な役職だ」「今回は旧統一教会の問題に抱きつかれてしまい、(略)私の顔もいくらかテレビで出ることになった」「法務大臣になってもお金は集まらない。なかなか票も入らない」――問題になったのは「死刑のはんこ」発言であった。
このことの深刻さは後に述べるとして、この三つの発言には、この議員の日常の欲望・願望が垣間見える。彼は「ニュースのトップ」になることや「いくらかテレビに出る」ことを強く望んでいる。法務省はそのチャンスがない「地味な役職」であることと「票とお金に縁がない」ことに不満を抱いている。ようやくテレビに出るようになったが、それは心ならずも「旧統一教会の問題に抱きつかれてしま」ったためであった(つまり自分達のせいではない)という。そしてこれらの発言全体は、どうやら会場の「うけ」を狙って言っているようだ。
彼が政治家になった動機は恐らく、国民に奉仕することでも、民主主義国家の役に立つためでもなく、「うけたい」「目立ちたい」という自己顕示欲だったのだろう。そしてこの発言は氷山の一角であり、その水面下の氷山は、同じような政治家たちの塊なのかもしれない。森喜朗元総理が失言を繰り返しながら自分の発言の社会的な意味が理解できないのも、世界は自分のためにのみ存在しているからだ。
ところで「死刑のはんこ」問題である。これは背筋がゾッとする発言だった。千葉景子氏が法務大臣の時(2010年)に刑場に赴き情報も公開したことを、後の法務大臣は全て見習うべきだった。なぜなら、政治家であるなら、自分の押印が人の命を奪う瞬間を、刑務官が死刑のボタンを押す耐え難い思いとともに、自ら深いところで受け止め、人間として死刑の是非を問うべきだからだ。政治家とはまず自らに向けて、人間とその社会はどうあるべきかを問い続ける存在であるはずだった。
(『週刊金曜日』2022年12月9日号)