タイパ
想田 和弘|2023年6月9日7:00AM
最近、主に若い世代で「タイパ(タイム・パフォーマンス)」という言葉が流行っているそうだ。コスパ(コスト・パフォーマンス=費用対効果)ならぬ、時間対効果という意味である。
時間を大事に使おうとすることに異論はない。しかし、タイパという言葉と発想には、落とし穴があるようにも感じる。
たとえば、タイパを求めて映画を2倍速で見る人たちがいるらしい。衝撃的である。というのも、映画鑑賞は本来、それ自体が楽しいことであったはずだ。しかし、2倍速で見て早く済まそうとするということは、映画鑑賞を仕事か苦役のごとく捉えているということだろう。だとしたら、それはかなりきついことだ。
僕はよく散歩をする。あてもなくぶらぶらと歩くことは、それ自体が楽しいことである。だから散歩にタイパという観点は入り込みようがない。
しかし目的地へ辿り着くために歩くなら、たちまちタイパを気にしかねない。最短距離を歩こうとして、近道を探し出す。歩く時間が短ければ短いほど、成功だということになる。だが、そうなると歩くことは、もはや楽しみではなくなる。よくて仕事、悪ければ苦役だ。
タイパという言葉が流行する背景には、砂を噛むような時間を減らして「生」を充実させたいという欲求を感じる。その欲求そのものは真っ当だが、タイパという発想と姿勢で暮らせば暮らすほど、営みそのものを楽しみ味わう姿勢が弱まり、充実した生からは遠ざかってしまうのではないか。
禅僧のティク・ナット・ハン師は、呼吸をしたり、歩いたり、食べたり、皿を洗ったりといった、毎日の営みそのものをじっくり楽しむことを説いた。タイパとは真逆の発想である。
「いそいで皿を洗ったら、皿洗いは不快なものになり、時間をかける値打ちのないものになってしまいます。(中略)皿を洗うことは目的であり、また同時に手段でもあります。言い換えれば、皿をきれいにするだけでなく、ただ皿を洗う、そのこと自体のために皿を洗うのです。いまこのひとときを十分に生きるために、皿を洗うことにいのちをかけるのです」(『微笑みを生きる』池田久代訳、春秋社)
これこそが、本当の意味で「時間を大事に使う」ということではないだろうか。
(『週刊金曜日』2023年6月2日号)