「自衛隊は違憲」とした長沼判決から半世紀
「失われた50年」を考える
徃住嘉文・報道人|2023年9月22日4:42PM
自衛隊は憲法9条2項が禁止する戦力だとして、ミサイル基地の建設を認めなかった1973年の札幌地裁(福島重雄裁判長)「長沼判決」から50年。史上唯一の自衛隊違憲判決を記念して、9月8日に札幌で開かれた集会で露わになったのは、政治権力に追従する司法の今だった。
「平和への道は遠く長いが、できる限り頑張ります」。集会後の懇親会。車いすの福島元裁判長は短くあいさつした。30周年、40周年、今回も一般人として参加し、登壇はない。花束贈呈さえ「私は今まで裁判関係者から一切物をもらったことはない」と固辞する。
その苦衷は学者らとの共著『長沼事件平賀書簡』(日本評論社、2009年)のあとがきにうかがえる。司法の醜い争いに有為な若い裁判官を巻き込み迷惑をかけてしまったと自分を責めていた。
長沼訴訟は69年、新千歳空港に近い長沼町の基地建設計画に住民らが反対して起こした。その2年前、隣の恵庭市の自衛隊演習場でも爆音で乳生産の激減した酪農家が自衛隊の通信線を切る自衛隊法違反事件が起きていた。67年、札幌地裁(辻三雄裁判長)は通信線を防衛用品ではないとして無罪を判示。政府はこれに司法の左翼化と驚愕し、パージに乗り出す。
福島さんにも地裁の平賀健太所長が政府判断を尊重すべきだと介入。最高裁は「左翼裁判官一覧表付き」右派雑誌を公費で170冊購入して各裁判所に配り、青年法律家協会を政治団体と断定し裁判官に脱退を求めた。会員と見られた裁判官の再任拒否、司法修習生の裁判官任官拒否も続いた。国会は福島さんの弾劾を狙ったが、野党が阻止した。そんな逆風下で決然と出されたのが長沼判決だ。
「世論、理論、弁論が勝訴を生んだ」と原告側弁護団の内藤功弁護士は北海道大学の深瀬忠一教授の言葉を紹介する。「平和に生きる権利=平和的生存権」を違憲論の柱に据え、保安林の水害防止機能を科学的に評価。傍聴券を1枚たりとも自衛隊に渡さないと学生らが地裁前テントに泊まり込んだ。
政治権力追従を強める
何より語られるのは福島さんの人となりだ。休日に長沼行きバスに偶然乗り合わせた北大生、福原正和さんは長沼近くで1人降りる姿を見て、現場調査と直感した。
「こんな親切な裁判官がいるなんて、怒る気が失せた」。典型的なレッドパージの冤罪とされる「芦別事件」被告の妻、井尻光子さんは振り返る。52年、芦別市内の国鉄根室本線が爆破され、夫が逮捕された。裁判闘争中に夫は交通事故死し娘も病死。最終的に無実を勝ち取り、井尻さんは働きながら国賠訴訟と子育てに骨身を削る。その裁判長が福島さんで、判決期日を変更すると聞き抗議に行った。裁判長自ら応接室の鍵を開けて招き入れ「変更されると印刷済みの裁判支援チラシや連絡が駄目になる」と訴える井尻さんに「知らなかった」と謝った。法廷でも「何か聞きたいことがあったらどうぞ」と井尻さんに声をかけた。一審は井尻さんが勝訴。いずれも今日ではまれなことだ。
長沼判決後、福島さんは「出世コース」から外れ、判決も上級審で覆された。最高裁は59年から高度に政治的な問題の裁判は避ける統治行為論で日米安保条約や衆議院解散の憲法審査を回避し始め、一連のパージ後は政治権力追従を一層強めている。たとえば9月12日、最高裁は衆参いずれかの議員の4分の1以上の要求で内閣が臨時国会を召集しなければならないとする憲法53条について、「個々の議員の権利を保障したものではない」と判示した。2017年に安倍晋三内閣が野党の要求を3カ月以上放置した挙げ句、招集の冒頭に衆院を解散したのは違憲だとして野党が訴えた上告審で、権利侵害はなかったと退けたのだ。
こうしてできた司法は世界の目には異形なようだ。「日本の裁判官は人権問題の認識が低く、人権研修の義務付けを推奨する」。国連の「ビジネスと人権」作業部会が今夏、訪日調査で出した声明だ。長沼判決から半世紀。私たちが失ったものは大きい。
(『週刊金曜日』2023年9月22日号)