迫真さ欠く国会議論
政治家の劣化に目を覆う
佐藤甲一・ジャーナリスト|2023年11月10日2:51PM
10月末にある討論の場で、立憲民主党の福山哲郎参議院議員から「最近民放の地上波で政治の討論の場がなくなった。もっとやるべきではないか」と指摘を受けた。政治の、そして政治家の劣化は目を覆うばかりだが、そうした事態に陥った原因のひとつは、テレビジャーナリズムにも責任があるのではないか、という話だ。
テレビ局の制作意図は知るべくもないが、政治家同士の議論そのものが「低調」であり、面白くないことも原因ではないか、と「反論」した。視聴者が見ないものは放送しない、これは民放テレビの「鉄則」だ。なにより当の国会での議論が迫真さを欠き、国政を激震させるほどの影響力を見せられないことが問題だろう。
岸田文雄首相は、憲法改正を必要とすべき、重要な安全保障政策の変更である「敵基地攻撃能力」を閣議で提起し、実現した。そ↖して国会はこれを食い止めることすらできなかった。その無力さを見れば明らかだろう。国民を、そしてメディアを議論の場に引きずり込むことこそ、政治の役割なのに、である。まさに与党野党を問わず、すべての政党、政治家の劣化だ。
なぜこのような事態に陥ったのか。政治とは殺し合いの場ではない。互いを説得し、歩み寄る場である。「政治とは100対ゼロで勝つことではなく、51対49で勝つことだ」といったのは自民党時代の小沢一郎氏だった。当時、竹下政権で官房副長官を務め、官邸の国会対策担当であった。対決法案であればあるほど、反対する野党の言い分も取り入れ、「花を持たせる」という発想がそこにはあった。さらには自民党の故野中広務衆議院議員は、京都府議時代には、難敵中の難敵だった蜷川虎三府知事を、「どう気持ちよく引退させるか」に腐心したという。引退後には府の関連団体にポストを用意し、勇退を促したと話していたが、それは老獪な「釣り餌」であると同時に、相手の引退後も思いやる、「敬意」もあったように思う。
多数を持っていれば、最後は原案通りに可決させることが可能である。だが、多数決は最終手段であって、はじめにありきではない。小学生でも習う、この民主主義の「大原則」が、国会でないがしろにされている。その象徴的な「答弁」が、いまは岸田首相や菅義偉前首相が官房長官時代に多用した「その指摘は当たらない」である。権力者がこの一言で異論を封じては、もはや民主主義は成り立たない。
もっとも、これは自民党の専売特許ではない。「こんな面白いものがまだ残っていたのか」とある自民党議員がつぶやいた民主党政権の「事業仕分け」も同根であろう。居並ぶ官僚を満座の前でなで斬りにする、どんなに説明しても、必要と認めることはない、「公開処刑」にも似た政策だった。そこには「聞く耳」を持つことのない、権力を握った民主党議員の姿があった。
故安倍晋三首相に言われたことがある。「どんなに些細なことでも反論しておかなければ、小選挙区選挙では、何が起きるかわからないんです。あなたにはわからないだろうけど」。報道内容への抗議の場での一言だった。政治家は互いの意見を素直に聞く「寛容」の心を失いつつある。深みのない政治家ばかりになった。その一点においては、これらを生み出した衆議院小選挙区制度は再考したほうが良いと私は思う。暴論だろうか。
(『週刊金曜日』2023年11月10日号)