米空母の横須賀母港化から50年
反対運動の地元市民「なぜ居直り続けるのか!」
稲垣美穂子・フリーランスライター|2023年11月27日6:51PM
米海軍の航空母艦ミッドウェーが、1973年10月5日に初めて米海軍の横須賀基地に配属されてから今年で50年。その歴史や今後の反対運動の闘い方について学び合うための「市民を欺し続けて『50年』 なぜ居直り続けるのか! 横須賀母港化50年を問う県民集会」が、11月4日に横浜市で開かれた。
問題の始まりは70年12月21日の日米合意だった。ベトナム戦争で財政的に逼迫し、海外米軍基地の負担が激増した米政府が在日米軍基地の統合計画を打ち出し、その中で横須賀基地の規模縮小と第7艦隊の佐世保基地への集約計画を発表した。横須賀にある六つあるドックのうち、6号ドックだけを残し、他のドックと厚木基地は日本に返還。基地従業員も大量に解雇するというものだった。
ところが71年1月、米海軍の予算状況が好転したのを機に計画は見直された。最初は佐世保基地の母港化(空母と駆逐艦)が検討されたが、横須賀基地のほうが、
①厚木基地とセットで使える
②士気改善のための家族住宅を建設するスペースを(基地外住宅賃金も含め)十分確保できる
③核兵器の持ち込みが目につきにくい
――などの理由から、こちらを母港化する計画へと変化。
その間、地元の横須賀市周辺では市長や経済界も含めた超党派で「横須賀基地対策市民大会」が開かれ、基地の早期返還と米空母母港化反対が決議されるなど幅広い反対運動が起きていた。特に、米海軍艦船修理廠・日本地区造修統括本部(SRF―JRMC)を民間企業が造船所として運用し、街の発展に繋がるからだ。
一方、外務省は空母母港化に反対していた長野正義・横須賀市長(当時)に「同計画は米軍の海外家族居住計画にすぎず、両三年」などと打診。72年11月30日に長野市長は空母の受け入れを表明したが、「核兵器の持ち込みは許さない。原子力空母の母港は将来にわたって認めない」としていた。
だが、2006年には、蒲谷亮一市長(当時)が原子力空母ジョージ・ワシントンの母港化の受け入れを表明。同空母は08年に入港した。
母港化は「永続的」か?
そうした過去の経緯について、「原子力空母の横須賀母港問題を考える市民の会」の共同代表で、長年にわたり横須賀の状況を見続けている呉東正彦弁護士は集会で「非核三原則により、領海通過や一時寄港の際、核の持ち込みは禁じられていたため『事前協議』が必要だった。しかし米ニクソン政権下の国務長官だったメルヴィン・レアードは『母港は常時配備のため、その対象とならない』と拡大解釈のうえ持ち込もうとした。また、外交文書を見ると、母港化に伴い騒音問題が相当な問題になることを米国政府はかなり懸念していたが、外務省は重視していなかったため何ら協議なく受け入れてしまった」と解説した。
ロシアによるウクライナ侵略の最中、日本は安保3文書の防衛力整備計画で反撃能力(敵基地攻撃能力)の保有を明記。海上自衛隊のイージス艦配備を12隻に増やし、ミサイル防衛の拠点としての基地強化を図り続けている。
それに関連して、呉東弁護士は「空母、原子力空母の母港化が永続的だとみることはできない。本当に空母は必要なのかということを真剣に問うべきだ」と提起した。空母が原子力であることによる軍事的な優位性はなく、むしろ固定された修理期間のため有事に出動させにくい。加えて、海外で母港を存続しようとするならば、艦船の修理や訓練も不十分になりがちなどの危険性が指摘されているからだ。
「米国が海外に空母の母港を置いておく状況が、本当にいつまでも続くかどうか分からない。その兆しが見えた時に、私たちがどれだけ力を集中し、チャンスに変えられるかという力量が私たちに問われている。そのためには普段から地道に運動を続けていることが重要だ」と、呉東弁護士は力を込めて訴えた。
(『週刊金曜日』2023年11月24日号)