オスロ合意から30年
「土地なき民」になったパレスチナ人
小田切拓・ジャーナリスト|2023年11月30日5:49PM
収穫は家族の分だけ
2000年に始まった第二次インティファーダが継続されていた02年、イスラエルは彼の畑の真ん中に隔離壁の設置を始めた。立ち入り禁止区域も設置され、彼の農地は3・2ヘクタールから1・6ヘクタールになった。
小学生だった二男はイスラエルのショベルカーに掴まって工事を妨害した。その様子がある日ニュース映像で流れた。一家は抵抗する農家として知られるようになった。トルカレムにはホテルがないため、やってきた外国プレスや活動家は、ファエズが妻や子ども5人と居住する100平方メートルほどの自宅をホテル代わりとした。彼は無償で食事も提供していた。
抵抗を続ける彼はその後も困難にぶち当たった。隔離壁ができたことで雨期には畑に水が溜まり、池のようになってしまった。また、第二次インティファーダ中にヨルダン川西岸地区に700カ所以上の検問所が設置されたため、野菜の価格は暴落した。周囲の都市に野菜を運べなかったからだ。
より深刻だったのは、畑のすぐ裏にあるイスラエルの工業入植地だ。イスラエル企業12社が、この場所で工場を稼働させていた。その中の化学製品製造メーカーは、イスラエル国内で環境汚染が問題視されたために規制の緩い西岸地区に移転したのだ。そして有毒な粉塵や排水をまき散らした。
(口には出さないが)ファエズの心が折れたのは、2年前ほどから始まった悪質な粉塵の飛来だった。ビニールハウス一面にこびり付き、取り去ることができない。ハウス内に太陽光が入らなくなったためにキュウリやトマトが生産できなくなったのだ。畑を訪れた日も、収穫はナスが2箱とモロヘイヤが少し。長男は、家で食べる分くらいにしかならない、と語っていた。
かつての10%の土地に
オスロ合意の最大の問題は、パレスチナ独立に向けた交渉のための一時的措置である合意事項が、イスラエルによる占領体制の制度的強化につながることだ。
たとえばオスロの追加条項では、パレスチナ人の人口密集地(エリアA、エリアB)以外は、エリアCと定められている。西岸地区の60%以上の面積に当たるエリアCは、治安維持も社会運営もイスラエルに管轄権がある。ここに国際法違反のユダヤ人居住地区(以後、入植地)も存在し、イスラエルの法制度が適用されている(パレスチナ人には軍法が適用される)。
国際法上、非合法である入植地はイスラエル政府の方針で拡大され、人口も急増している【注2】。
にもかかわらず、国際社会は、準国際法的な位置付けであるオスロ合意を理由に黙認しているのだ。
イスラエル領と直接統治を行なっている地区の推移を数値化するとわかりやすい。イスラエル独立前のイギリス委任統治下の「パレスチナ」地域の面積を100とすると、1948年にイスラエルはその78%を自国領にした。67年に残りの22%も支配下に置いた。それがオスロ合意によって、この22%の半分以上(13%あまり)がエリアCとされ、イスラエルは暫定的とはいえ、準領土に格上げされたと捉えた。
結果、イギリス委任統治期の「パレスチナ」の約90(78+13)%が、イスラエルの領土や実質的な準領土になった。つまり、かつては「パレスチナ」の全土にいたパレスチナ人が、その10%の土地に閉じ込められようとしているのだ。
農業の話に戻れば、農地は人口密集地ではないために、パレスチナの農地の63%がエリアCに組み込まれた。パレスチナ人は農地に入るにも制約があり、隔離壁が設置された場所ではそれがさらに著しくなる。また、エリアCでは井戸を掘ることもできない。(国境をイスラエルが管理するため、輸出にも制限が加わる)。ジェニン、トルカレム等の西岸地区北西部は地下水が豊富な場所で、たとえばジェニンは他国にも輸出するほどスイカの名産地だった。ところが、現在はほとんど生産されていない。実際にトルカレムの市場で確認すると、すべてイスラエル産だった。水のコストの高騰や封鎖で生産を中止している間に、イスラエル産が市場を独占してしまったという。
このような状況下で、西岸地区では農業をやめる動きが加速している【注3】。だが、土地を手放した後の選択肢は、イスラエルでの労働に限定されていく。